白虎隊と飯盛山|19人が命を絶った戊辰戦争の悲劇を出典つきで

戊辰戦争末期、16〜17歳の会津藩士の子ら約20人が、飯盛山で集団自決しました。城が燃えていると誤解しての行動だったと伝わります。日新館での教育から悲劇の経緯、唯一の生存者のその後までを、出典つきでたどります。
白虎隊は、1868年(慶応4年)の軍制改革で編成された、会津藩の16〜17歳の少年による部隊です。日新館で文武両道の教育を受けた少年たちは、本来は後方の備えとされていましたが、戦況の悪化により実戦に投入されました。
この記事では、少年たちが受けた日新館の教育、飯盛山での悲劇の経緯、唯一生き残った飯沼貞吉のその後、そして飯盛山に今も残る2つの海外からの記念碑までを紹介します。
藩校日新館と、白虎隊という部隊
会津藩士の子は10歳で藩校日新館に入り、1868年の軍制改革で16〜17歳が「白虎隊」に編成されました。
会津藩校日新館
会津藩士の男子は10歳になると藩校・日新館に入学しました。1799年に着工し1803年に完成した日新館は、天文台や水練場(プール)まで備えた全国でも稀な規模の学校で、素読所での基礎学習を経て、優秀な生徒は藩費で江戸や長崎への留学も許されました。
出典:白虎隊
白虎隊の編成
1868年3月の軍制改革で、会津藩は藩士を年齢別に玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36〜49歳)、朱雀隊(18〜35歳)、白虎隊(当初15〜17歳、のち16〜17歳)、幼少組(14〜15歳)に編成しました。主力は朱雀隊で、白虎隊は本来、後方の予備兵力とされていました。
出典:白虎隊
飯盛山での悲劇はどのように起きたのか
戸ノ口原で敗れた少年たちは飯盛山から城下の黒煙を見て落城と誤解し、19人が命を絶ちました。
戸ノ口原の戦いと飯盛山への退却
1868年8月22日、白虎士中二番隊のうち37人が出陣を命じられ、戸ノ口原で新政府軍と交戦しましたが敗走しました。翌23日、篠田儀三郎ら約20人が滝沢峠の間道や戸ノ口堰の洞門を抜けて飯盛山にたどり着き、山腹から鶴ヶ城の方角を望みました。
落城の誤解と集団自決
少年たちが見た城下の黒煙は、実際には城下の火災によるもので、鶴ヶ城はまだ落城していませんでした。しかし「城はすでに落ちた」と誤解した少年たちは「主君のために殉じよう」と自決を選びました。20人のうち19人が死亡し、のどを突いて一命をつないだ飯沼貞吉だけが救助されて生き残りました。
生存者のその後と、海外から贈られた記念碑
生存者・飯沼貞吉は逓信技術者となり、飯盛山には後年、ローマとドイツから記念碑が贈られました。
飯沼貞吉のその後
唯一の生存者・飯沼貞吉は、維新後に貞雄と改名し、静岡の電気通信専門学校を卒業して逓信省の技術者になりました。日清戦争では朝鮮半島で電線架設に従事し、1905年からは5年間札幌にも勤務しています。1931年、76歳で亡くなるまで、電気通信の先駆者として生涯を送りました。
ローマ市とドイツから贈られた記念碑
1928年、白虎隊の物語に感銘を受けたムッソリーニの命により、ローマ市民の名で古代ローマの石柱を用いた記念碑が飯盛山に贈られました。1935年にはドイツ大使館員フォン・エッツ・ドルフが個人として別の記念碑を贈っています。両碑の碑文は第二次大戦後に連合国軍によって削り取られましたが、ドイツ側の碑文は1953年に復元されたと伝わり、現在は両碑とも飯盛山に残っています。
出典:飯盛山 ローマ市寄贈の碑
よくある質問
白虎隊全体で何人いた?飯盛山にいたのは一部?
白虎隊全体は士中隊・寄合組隊・足軽隊を合わせて約343人でした。飯盛山で自決したのは、そのうち戸ノ口原へ出陣した士中二番隊37人のうちの一部、約20人にとどまります。
白虎隊が戦った戸ノ口原とはどこ?
猪苗代湖から流れる日橋川沿い、十六橋の東側に広がる高原一帯です。新政府軍は母成峠を突破後、この十六橋を落とそうとする会津側の防戦を破り、戸ノ口原まで迫っていました。
飯盛山にはお墓もある?
はい。「白虎隊十九士の墓」があり、飯盛山山中の別の場所で亡くなった隊士も含めて19の墓碑が並びます。春と秋の年2回、剣舞を奉納する墓前祭が行われています。
ローマ市の碑には、もともと何が刻まれていた?
表面には、古代ローマの権威を示すファシスタ党章(当時のイタリアの国家シンボル)を飾った文言が、裏面には「武士道の精神に捧ぐ」という言葉が刻まれていました。表面の文言は戦後、連合国軍により削り取られています。