会津藩と戊辰戦争|保科正之から松平容保、会津戦争までを出典つきで

会津藩は、徳川将軍の弟・保科正之を藩祖とし、幕末には藩主・松平容保が京都守護職として新選組を指揮しました。その忠義の伝統が、1868年の会津戦争でどのような結末を迎えたのかを、出典つきでたどります。
会津藩の歴史は、1643年に保科正之が入って以降、徳川家への忠義を核とする独自の伝統を築いてきました。幕末、藩主・松平容保はこの伝統のもとで京都守護職を務め、新選組を指揮下に置きます。
この記事では、藩祖・保科正之が残した「家訓十五箇条」から、松平容保の京都での活動、そして1868年の会津戦争とその後の会津藩の運命までを、出典つきで紹介します。この記事は会津戦争全体を扱いますが、白虎隊士の悲劇そのものは別記事で詳しく紹介しています。
藩祖・保科正之が残した「忠義」の家訓
保科正之は1668年、徳川将軍家への忠義を第一条に掲げる「会津家訓十五箇条」を定めました。
保科正之と会津入り
保科正之は、2代将軍・徳川秀忠の子として生まれ、3代将軍・家光の異母弟にあたります。信州高遠藩主などを経て、1643年に山形から23万石で会津に入りました。3代目藩主・正容の代(1696年)には、将軍の命により松平姓と葵紋の使用が許されています。
会津家訓十五箇条
保科正之は1668年、「会津家訓十五箇条」を定めました。第一条には「大君(将軍)の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」とあり、将軍に対して二心を抱く者は子孫ではない、家臣も従うべきではないとまで記しています。この家訓は以後200年にわたり会津藩の精神的な支柱となり、幕末の藩主・松平容保はこれを特に固く守りました。
出典:会津松平家と家訓十五カ条
京都守護職・松平容保と幕末の会津藩
藩主・松平容保は1862年に京都守護職となり、新選組を指揮して尊攘派の取り締まりに当たりました。
京都守護職への就任
幕末の藩主・松平容保は、28歳で京都の治安維持を担う京都守護職に任じられました。新選組を配下に置き、1863年8月18日の政変では攘夷派の公家や長州勢を京都から追放し、朝廷からも功を賞されました。1864年の禁門の変(蛤御門の戦い)でも、会津藩兵と新選組を指揮して長州勢を撃退しています。
大政奉還から鳥羽伏見の戦いへ
1867年の大政奉還後も、松平容保は徳川家と運命を共にする道を選びました。1868年1月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府側が敗れると、会津藩は奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍と対立し、戦いの舞台はやがて会津そのものへ移っていきます。
会津戦争と、その後の会津藩
1868年8〜9月の会津戦争は1か月の籠城戦の末に降伏し、藩は後に厳しい処分を受けました。
娘子隊と会津戦争の激戦
新政府軍が母成峠を突破して会津領内に迫ると、藩士だけでなく、中野竹子らが結成した女性だけの部隊「娘子隊」も戦いに加わりました。竹子は1868年8月25日、柳橋(涙橋)での戦闘で銃弾に倒れ、討ち死にしています。鶴ヶ城は1か月に及ぶ籠城戦の末、9月に降伏・開城しました。
松平容保のその後
降伏後、松平容保は死一等を減じられ、和歌山藩などに預けられて謹慎しました。会津藩は家名存続を許されたものの、明治政府から不毛の地・下北半島の斗南(現在の青森県)へ移封され、多くの藩士とその家族が厳しい生活を強いられました。容保自身は1880年、日光東照宮の宮司に任じられ、晩年を過ごしています。
出典:松平容保 日本史辞典
柴五郎ら会津藩士の子女たちのその後
会津藩士の家に生まれた柴五郎は、会津戦争で祖母・母・姉妹を失う苦難を経験しました。後に陸軍軍人となり、1900年の義和団事件では北京の各国公使館籠城戦で日本隊を指揮し、その活躍は諸外国からも称賛されました。柴五郎のように、戦争で家族や故郷を失いながらも新時代を生きた会津藩士の子女は少なくありません。
よくある質問
会津藩はなぜ「朝敵」とされたのか?
徳川方の中心的存在だったことに加え、鳥羽伏見の戦い後、新政府側が旧幕府方諸藩への処分を進めるなかで、京都での会津藩の存在感の大きさが標的とされた一因と考えられています。会津藩自身は最後まで、朝廷そのものに反する意図はないと主張していました。
「奥羽越列藩同盟」とはどんな組織?
会津藩や仙台藩など、東北・越後地方の諸藩が新政府軍に対抗するために結んだ同盟です。会津戦争では同盟の他藩からの支援も会津に集まりましたが、新政府軍の攻勢の前に同盟は次第に崩れていきました。
中野竹子はどんな人物だった?
会津藩の家に生まれ、なぎなたの心得があった女性です。討ち死にした際、敵に首を取られることを避けるため、妹と母がその場で竹子の首を落としたと伝わっています。
斗南移封後の会津藩士はどうなった?
冷涼で農業に適さない土地への移封により、多くの藩士とその家族が飢えや厳しい寒さに苦しんだと伝わります。後年、旧会津藩士やその子孫の一部は北海道などへも移り住み、新たな土地で生活を再建していきました。