会津若松市の難読地名|神指・一箕・門田を由来から読む

「神指」「一箕」「門田」。会津若松市内を歩くと、漢字だけでは正しく読めない町名にいくつも出会います。今も住居表示として使われ続けているこれらの地名をたどると、戦国時代からの歴史が見えてきます。
難読地名の多くは、明治以降の町村合併や住居表示の整理を経てもなお、中世・近世からの古い地名や読みがそのまま残ったものです。会津若松市内にもそうした地名が点在しています。
ここでは、Wikipedia「東北地方の難読地名一覧」にも収録される「一箕」「神指」を含め、由来がはっきり記録されている地名を、読み方と歴史の両面から紹介します。
幻の巨大城下と関ヶ原前夜の地名「神指町」
上杉景勝が関ヶ原の合戦前夜に築城を始め、未完成のまま放棄した「幻の城」跡の地名です。
神指町こうざしまち
「神指」は「こうざし」と読みます。1600年(慶長5年)、会津120万石の領主だった上杉景勝は、手狭になった若松城に代わる新城を、家老・直江兼続を総奉行として神指ヶ原に築き始めました。本丸だけで東西180メートル・南北306メートル、完成すれば鶴ヶ城の2倍にあたる東日本最大級の平城になる計画でしたが、徳川家康との関係悪化により工事は中断され、一度も使われることなく終わりました。
出典:神指城跡
未完の神指城と直江状
神指城の築城が本格化した1600年3月、この動きは徳川家康による会津征伐の口実の一つとなりました。家老・直江兼続が家康の詰問に対して送った挑発的な返書「直江状」が上杉征伐へつながったとされ、家康が会津へ向かう途上で石田三成が挙兵し、関ヶ原合戦に至ります。上杉景勝は合戦後に米沢へ移封となり、神指城はついに完成しませんでした。
読み方そのものが特殊な地名「一箕」「門田」
「一箕」「門田」は、漢字を見ただけでは由来を知らない限り読み方の見当がつかない地名です。
一箕町いっきまち
「一箕」は「いっき」と読みます。「箕」を「き」と読む例は少なく、Wikipediaの「東北地方の難読地名一覧」にも会津若松市の難読地名として名前が挙がっています。町域には飯盛山があり、山中の厳島神社の参道は、幕末に白虎隊士が身を投じた場としても知られています。1955年、北会津郡一箕村が若松市に編入された際、村名がそのまま町名として引き継がれました。
門田町もんでんまち
「門田」は「もんでん」と読みます。「かどた」と読む地名は各地にありますが、門田町では古い読みの「もんでん」が今も使われています。江戸期には門田村と呼ばれ、水田や集落が広がる農村地帯でした。現在は住宅地や商業地が混在し、地区内には明治初期創業の酒蔵など、古くからの産業も残っています。
よくある質問
会津若松市に他にも難読地名はある?
あります。例えば門田町の大字「飯寺」は「にいでら」と読みます。素直に読むと「いいじ」「はんじ」などと読みたくなりますが、かつては「新寺」「二井寺」とも表記されたと伝わり、街道沿いの村として上・下・新田の3地区に分かれていました。
「神指城」は今も見ることができる?
建物は残っていませんが、本丸周辺には土塁の一部が今も残り、会津若松市内の史跡として見学できます。
門田町と一箕町は、もともと同じ自治体だった?
いいえ。1955年の合併時点では、門田村・一箕村はそれぞれ北会津郡の別の村でした。高野村・神指村・東山村・大戸村・湊村とあわせて7つの村が、この年に若松市へ編入されて現在の会津若松市になった点が共通しています。
会津若松市の町名はすべて「〜ちょう」と読む?
いいえ、表記は「町」でも「まち」と読むのが会津若松市の公式なルールです。神指町も一箕町も門田町も、読みは「ちょう」ではなく「まち」で統一されています。