兼六園の歴史|徽軫灯籠・雪吊り・日本三名園を出典つきで

日本三名園の一つに数えられる兼六園は、加賀藩の歴代藩主が手がけた大名庭園です。「兼六」という名前の由来から、シンボルの徽軫灯籠、冬の風物詩・雪吊り、庭園を潤す辰巳用水まで、出典つきで紹介します。
兼六園は、加賀藩5代藩主・前田綱紀が1676年に手がけた蓮池庭を起源とし、歴代藩主が増改築を重ねてきた大名庭園です。1822年に「兼六園」と名付けられ、岡山の後楽園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三名園」の一つに数えられています。
この記事では、名前の由来となった「六勝」という考え方から、シンボルの徽軫灯籠、冬の雪吊り、そして庭園に水を届ける辰巳用水まで、出典つきで解説します。
「兼六園」という名前は何を意味するのか
宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望という相反する6つの景観を兼ね備えるという意味の名前です。
六勝の由来
兼六園の名前は、中国・宋代の書物『洛陽名園記』にある考え方に由来します。広大さと静けさ、人工的な趣と古びた風格、水に恵まれることと眺望の良さは、本来両立しにくい6つの要素とされ、これらすべてを兼ね備えた庭であることから「兼六園」と名付けられました。1822年、老中・松平定信が正門に掲げる扁額の揮毫に携わったとされています。
蓮池庭と千歳台、二つの時代の庭
兼六園は一度に造られた庭園ではありません。傾斜地に広がる「蓮池庭」は1676年(延宝4年)に5代藩主・前田綱紀が着手したもので、庭園の中でも古い区画にあたります。一方、平坦地に広がる「千歳台」は1800年代に整備された区画で、この二つの異なる時代の庭が組み合わさって現在の兼六園を形づくっています。
出典:兼六園の歴史
徽軫灯籠と、日本三名園としての兼六園
徽軫灯籠は琴柱に似た二本脚の灯籠で、兼六園は後楽園・偕楽園と並ぶ日本三名園の一つです。
徽軫灯籠という名前と形の由来
兼六園のシンボルとされる徽軫灯籠は、もともと水面を照らすための雪見灯籠が変化した二本脚の灯籠です。片方の脚が短く、もう片方が長い独特の形が、琴の弦を支えて音の高さを調整する道具「琴柱(ことじ)」に似ていることから、この名がついたといわれています。霞ヶ池のほとりに立ち、兼六園を象徴する景観として広く知られています。
出典:兼六園・徽軫灯籠
日本三名園としての位置づけ
兼六園は、岡山の後楽園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三名園」と呼ばれています。三つの庭園はいずれも江戸時代に大名が手がけた池泉回遊式庭園で、藩の威信を示す場であったと同時に、藩主が客をもてなす迎賓の場としても使われました。
出典:特別名勝 兼六園
雪吊りはどんな仕組みで木を守るのか
11月から庭園全体の樹木に縄をかけて枝を守る作業で、約800本の木に施され12月中旬まで続きます。
雪吊りの技法と規模
雪吊りは、雪の重みで枝が折れるのを防ぐため、木の中心に立てた芯柱から放射状に縄を張り、枝を吊り上げる技法です。兼六園では毎年11月1日から職人による作業が始まり、園内の大小およそ800本の樹木に対して、総数約800本の縄が使われます。作業は12月中旬まで続き、冬の到来を告げる風物詩となっています。
庭園の池を潤す水はどこから来ているのか
1632年に板屋兵四郎が築いた辰巳用水が、逆サイフォンの原理で犀川の水を庭園まで引いています。
辰巳用水と板屋兵四郎の逆サイフォン
兼六園の池や曲水を満たす水は、犀川上流から引かれた辰巳用水によるものです。1631年の大火を受け、3代藩主・前田利常の命により板屋兵四郎が工事にあたり、わずか1年足らずで約4キロメートルの隧道を完成させました。水位の高低差を利用して水を押し上げる「伏越の理」(逆サイフォンの原理)を用いて、金沢城の堀と兼六園に水を届けています。
よくある質問
兼六園は昔から一般公開されていた?
いいえ。もともとは藩主一族のための庭園で、一般開放されたのは1874年(明治7年)のことです。廃藩置県後、旧加賀藩の庭園が石川県に払い下げられ、県民に開かれた公園となりました。
兼六園最大の池「霞ヶ池」はどんな役割を持つ?
霞ヶ池は兼六園最大の池で、辰巳用水から引かれた水を蓄え、園内各所の曲水や滝に送り出す水源としての役割も担っています。徽軫灯籠はこの池のほとりに立っています。
雪吊りは兼六園だけの技術?
いいえ。雪吊り自体は雪の多い地域で広く見られる技術ですが、兼六園のように数百本規模の樹木へ一斉に施す例は珍しく、その規模の大きさが金沢の冬を象徴する光景として全国に知られる理由になっています。
兼六園はもともと金沢城の一部だった?
はい。もとは金沢城の外郭にあたる区域で、歴代藩主が城に隣接する庭として整備してきました。現在は道路を挟んで金沢城公園と隣り合う別々の公園ですが、「石川橋」でつながっており、歩いて行き来できます。