加賀藩と前田家|加賀百万石はどう築かれたのかを出典つきで

最終更新: 2026-07-11

前田利家の立身を描いた架空のドット絵風景

加賀藩は、外様大名でありながら江戸時代を通じて最大の石高を誇った藩です。藩祖・前田利家の立身から、加賀百万石の確立、5代藩主・前田綱紀による学問奨励まで、出典つきで解説します。

加賀藩は、加賀・能登・越中の三国にまたがる119万2760石を治めた藩で、江戸時代を通じて外様大名としては最大の石高を誇りました。藩祖・前田利家が織田信長・豊臣秀吉に仕えて立身し、その子孫が明治維新までこの地を治め続けています。

この記事では、前田利家がどのように加賀百万石の礎を築いたのか、その石高がいつ確定したのか、そして5代藩主・前田綱紀がどのような文化政策を進めたのかを、出典つきで紹介します。

前田利家はどうやって百万石の礎を築いたのか

織田信長の家臣から身を起こし、豊臣政権下で能登・加賀を治める大名となり、五大老の一人にまで昇りました。

前田利家の立身

尾張国出身

前田利家は尾張国に生まれ、若くして織田信長に仕えました。信長からは能登一国を与えられ、信長の死後は豊臣秀吉に仕えて各地を転戦し、能登に加えて加賀・越中を与えられて三国にまたがる勢力を築きました。晩年には豊臣政権の意思決定を担う五大老の一人にも列せられています。

出典:加賀百万石を築いた、前田利家「戦国武将名鑑」

利家の死と加賀騒動につながる家中の緊張

1599年(慶長4年)没

前田利家は1599年に没し、跡を長男・利長が継ぎました。利家の死後まもなく、徳川家康と前田家の関係は緊張し、利長の母・芳春院(まつ)が人質として江戸に下ることで事態を収めています。この時期の対応が、後年「加賀百万石」として続く前田家の存続を左右したとされます。

出典:なぜ江戸時代に加賀藩だけが百万石だったのか…前田家の家系図を見ればわかる当主たちの涙ぐましい努力

「加賀百万石」という石高はいつ確定したのか

1634年、3代藩主・前田利常への朱印状で119万2760石が確定し、外様大名として最大の石高になりました。

1634年の朱印状と119万2760石

寛永11年8月

1634年(寛永11年)8月、3代将軍・徳川家光が3代藩主・前田利常に領知朱印状を発行し、加賀・越中・能登の三国内での表高119万2760石が確定しました。この石高は、江戸時代を通じて外様大名としては最大のものであり、「加賀百万石」という呼び名はこのときに実質的に確立したとされています。

出典:加賀藩 - Wikipedia

外様大名としての特異な立場

三国にまたがる領地

加賀藩は徳川家と血縁関係のない外様大名でありながら、御三家に次ぐ大藩として遇されました。加賀・能登・越中という三国にまたがる領地は、江戸から遠く離れた北陸に位置しながらも、参勤交代や江戸城の普請役など、幕府への奉公を通じて安定した関係を保ち続けました。

出典:加賀藩 外様の名門前田家が治める

前田綱紀は何を成し遂げたのか

5代藩主・前田綱紀は80年におよぶ治世で学問を奨励し、飢饉対策を整え、加賀宝生を藩の芸能に定めました。

80年におよぶ治世と学問奨励

1643年生・1723年隠居(在位80年)・1724年没

5代藩主・前田綱紀は1643年に生まれ、1723年に隠居するまで、実に80年にわたり藩主を務め、その翌年の1724年に82歳で没しました。学問を重んじ、多くの書物や資料を収集して「尊経閣文庫」の基礎を築いたほか、新田開発を進め、村々をまとめる十村制度を整備するなど、藩政の基盤づくりに力を注いでいます。

出典:80年間も藩主を務めた前田綱紀~加賀百万石を飛躍させた5代目にはどんな功績が?

寛文の飢饉と生活困窮者への対策

寛文年間(1660年代)

前田綱紀の治世には、北陸一帯を襲った寛文の飢饉のような危機もありました。綱紀は生活困窮者を救済するための施設を設けるなど、藩主として民生の安定に取り組んでおり、こうした実績が評価されて5代将軍・徳川綱吉から御三家に準ずる厚遇を受けたと伝えられています。

出典:80年間も藩主を務めた前田綱紀~加賀百万石を飛躍させた5代目にはどんな功績が?

加賀宝生―綱紀が広めた能楽

1686年、将軍の前で初演

前田家は当初、能楽の一派である金春流を好んでいましたが、5代藩主・前田綱紀の代に、宝生流を好んだ将軍・徳川綱吉の要請を受けて宝生流を採用しました。1686年、綱紀は江戸城で「桜川」を演じ、以後宝生流は加賀藩の能として定着し、武士だけでなく職人までもが謡を口ずさむほど浸透したことから「空から謡が降る」と評されるまでになりました。この芸能は「加賀宝生」と呼ばれ、今日の金沢にも受け継がれています。

出典:加賀宝生とは – 公益社団法人 金沢能楽会

よくある質問

前田利家は今どこに祀られている?

金沢市の尾山神社に、妻・お松の方とともに祀られています。1873年(明治6年)、旧加賀藩士たちが利家の功績を後世に伝えるために創建した神社で、和漢洋の様式を混ぜた神門にステンドグラス(ギヤマン)がはめ込まれていることでも知られています。

「加賀騒動」とはどんな事件?

加賀藩で起きたお家騒動の総称で、なかには藩主の暗殺が図られたとされる事件も伝わっています。百万石という大藩であればこそ、家中の権力争いも大きな騒動になったことがうかがえます。

加賀藩の石高119万2760石は何を含んでいる?

加賀・能登・越中三国の表高の合計で、新田開発によって実際の収穫高(内高)はこれを上回っていたとされます。表高と実高の差も、加賀藩の財政基盤の厚さを支えていました。

前田綱紀のあとの藩主にはどんな人物がいた?

12代藩主・前田斉広は1822年に兼六園の名付けに関わり、13代藩主・前田斉泰は兼六園の唐崎松を植えるなど、綱紀以降も歴代藩主が文化事業を継承しました。

加賀藩ゆかりの文化で、今も金沢で見られるものは?

加賀藩の江戸上屋敷を守った大名火消し「加賀鳶」は、明治期に旧藩士が金沢へ移り住んだことで技が持ち込まれ、梯子登りの妙技として今も出初式などで披露されています。

出典・参考

※ 由来に諸説あるものは「諸説あり」として記載しています。読み・由来は公開情報にもとづきますが、最新の情報は各出典でご確認ください。

執筆: LoreMania編集部/出典検証: 各項目に明記

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