長町武家屋敷跡の歴史|土塀・大野庄用水・野村家を出典つきで

最終更新: 2026-07-11

土塀と石畳の街並みを描いた架空のドット絵風景

長町武家屋敷跡は、加賀藩の中級・上級武士が暮らした屋敷町です。今も残る土塀と石畳の町並み、屋敷を潤した大野庄用水、そして野村家の暮らしぶりを出典つきで紹介します。

長町武家屋敷跡は、加賀藩の中級・上級武士の屋敷が並んでいた一角で、今も土塀と石畳の続く町並みが保存されています。屋敷の背後を流れる大野庄用水は、金沢に55ある用水路の中でも最も古いものの一つとされます。

この記事では、長町の町並みの特徴、大野庄用水の役割、そして加賀藩士・野村家の屋敷に残る暮らしの痕跡を、出典つきで解説します。

長町にはどんな街並みが残っているのか

低く積まれた土塀と石畳の路地が続き、冬にはこも掛けで土塀を雪や凍結から守っています。

土塀と石畳の街並み

加賀藩中級・上級武士の屋敷町

長町武家屋敷跡は、加賀藩の中級・上級武士の屋敷が軒を連ねていた一角です。京都や奈良の土塀と比べて低く積まれているのが特徴で、石畳の路地とあわせて、江戸時代の武家地の雰囲気を今に伝えています。

出典:長町武家屋敷跡の見どころ-土塀の街並みはヨーロピアンのお気に入り

冬の風物詩「こも掛け」

毎年11月ごろ実施

長町の土塀は、雪や霜から壁を守るため、冬になると藁を編んだ「こも」で覆われます。この「こも掛け」は毎年11月ごろに行われ、雪吊りと並んで、金沢に冬の到来を告げる風物詩の一つとなっています。

出典:長町武家屋敷跡界隈

屋敷の背後を流れる大野庄用水とは

金沢城の築城にも使われた金沢最古の用水路で、かつては木材を運ぶ水路としても利用されました。

大野庄用水と金沢城の築城

金沢に現存する55用水のうち最古

長町の土塀沿いを流れる大野庄用水は、金沢に現存する55の用水路の中でも最も古いものとされています。かつては木材を運ぶ水路として使われ、金沢城の築城にあたって資材を運ぶ役割も果たしました。現在は「長町一の橋」付近が写真映えするスポットとして親しまれています。

出典:長町武家屋敷跡の見どころ-土塀の街並みはヨーロピアンのお気に入り

野村家に見る中級武士の暮らし

1583年の前田利家入城以来仕えた野村家は、千二百石取りの家格を持つ屋敷を今に伝えています。

野村家の由緒と家格

加賀藩士・千二百石

野村家は、1583年に前田利家が金沢城に入城した際からの直臣で、家禄は千石から千二百石まで加増され、11代にわたって馬廻組の組頭など要職を務めました。長町武家屋敷跡に残る屋敷は、当時の中級武士の暮らしぶりを伝える貴重な遺構です。

出典:野村家の由来

狩野派の襖絵とミシュラン庭園

2009年ミシュラン・グリーンガイド二つ星

野村家の屋敷には、加賀藩御用絵師である狩野派の襖絵や、代々伝わる武具・甲冑が展示されています。庭園は格式ある造りと自然の風情を兼ね備え、2009年のミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで二つ星を獲得したほか、2003年には米国の庭園専門誌による日本庭園ランキングで3位に選ばれました。

出典:武家屋敷跡 野村家

よくある質問

長町の武士は上級武士だった?

屋敷の規模によって身分は幅があり、中級から上級の武士が暮らしていました。野村家のように千石を超える家もあれば、より小規模な屋敷を構えた家もあり、通りごとに家格の違いがうかがえます。

長町の土塀はなぜ低い?

理由は諸説ありますが、京都や奈良の寺院・公家の土塀とは異なり、防御拠点というより日常の住まいとしての性格が強かったことが背景にあると考えられています。

大野庄用水は今も使われている?

はい。現在も生活用水路として市内を流れ続けており、長町だけでなく金沢中心部の随所で、せせらぎとして親しまれています。

野村家以外にも見学できる武家屋敷はある?

はい。長町五の橋には「金沢市足軽資料館」があり、藩政時代の足軽(下級武士)の住居2棟を移築復元して無料公開しています。中級・上級武士の野村家と見比べることで、身分による住まいの違いがよくわかります。

出典・参考

※ 由来に諸説あるものは「諸説あり」として記載しています。読み・由来は公開情報にもとづきますが、最新の情報は各出典でご確認ください。

執筆: LoreMania編集部/出典検証: 各項目に明記

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