金沢城の歴史|尾山御坊から石川門、菱櫓の再建まで

最終更新: 2026-07-11

尾山御坊と一向一揆の拠点を描いた架空のドット絵風景

金沢城は、一向一揆の拠点だった尾山御坊を前身とし、前田利家の入城後に加賀藩の居城となりました。天守を落雷で失いながらも、石川門や菱櫓・五十間長屋の再建を通じて今にその姿を伝えています。

金沢城は、加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」を前身とする城です。1583年に前田利家が入城して以来、明治維新まで加賀藩前田家の居城となりました。天守は江戸初期の落雷で焼失し、以後再建されないまま今日に至ります。

この記事では、尾山御坊から金沢城への変遷、たびたび城を襲った火災と近年の再建、そして現存する石川門の構造と歴史を、出典つきで紹介します。

尾山御坊から金沢城へ―前田利家の入城まで

一向一揆の拠点だった尾山御坊を佐久間盛政が攻略して金沢城と改め、前田利家が1583年に入城しました。

尾山御坊と一向一揆の拠点

1546年建立

金沢城の前身は、1546年(天文15年)に加賀一向一揆の拠点として建てられた尾山御坊(金沢御堂)です。濠や柵を備えた寺院で、長らく加賀における一向一揆勢力の中心地でした。1580年、織田方の佐久間盛政がこれを攻め落とし、「金沢城」と改めて居城としました。

出典:金沢城の歴史的経緯

前田利家の入城と城下町優先の方針

1583年(天正11年)入城

1583年、賤ヶ岳の戦いを経て豊臣秀吉から加増を受けた前田利家が金沢城に入城しました。利家は入城から4年ほど城の大改修に着手せず、「戦は城の外でするもの」という考えのもと、防御力の強化よりも城下町の整備や領民の暮らし向上を優先したと伝えられています。

出典:前田利家の入城から始まる、雅やかな金沢の歴史。

なぜ金沢城に天守がないのか

1602年の落雷で天守を焼失して以来再建されず、菱櫓や五十間長屋が城の象徴になっています。

1602年の落雷による天守焼失

慶長7年

金沢城の天守は、1602年(慶長7年)の落雷により焼失しました。その後三階櫓が建てられたものの、1631年(寛永8年)の火災で再び失われています。徳川幕府との緊張関係の中で、大名の力の象徴となる天守を目立たせにくかったことも、以後天守が再建されなかった一因とされます。

出典:金沢城の建造物について教えてください

三度の火災と菱櫓・五十間長屋・河北門の再建

2001年・2010年に復元

金沢城の建物群は、1759年(宝暦9年)、1808年(文化5年)、1881年(明治14年)と三度の大火に見舞われました。長らく再建されずにいた菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は2001年に、三御門の一つ河北門は2010年に、いずれも伝統工法を用いて復元され、現在の金沢城公園の姿になっています。

出典:金沢城の五十間長屋は「21世紀の築城」のシンボル

現存する石川門の構造と歴史

石川郡の方角を向くことに由来する名を持ち、1788年再建の升形門が国の重要文化財として残っています。

石川門という名前の由来

国指定重要文化財

石川門は、金沢城の搦手(裏口)にあたる門で、城から見て石川郡(現在の白山市・野々市市方面)の方角を向いていたことが名前の由来とされています。搦手門は脱出路としての役割も担っていたことから、実質的な城の裏玄関にあたる存在でした。

出典:金沢城石川門

1788年再建の升形門という防御構造

1759年焼失・1788年再建

現在の石川門は、1759年(宝暦9年)の大火で全焼した後、1788年(天明8年)に再建されたものです。表門とその内側の櫓門、それらを囲む続櫓・二重櫓からなる「升形門」と呼ばれる構造を持ち、侵入者を四方から迎え撃てる高い防御性を備えています。

出典:金沢城石川門 櫓

よくある質問

金沢城には天守の代わりに何がある?

天守はありませんが、菱形の平面を持つ「菱櫓」や城内最大級の「五十間長屋」が城の象徴として親しまれています。菱櫓はあえて菱形に造ることで死角を減らし、敵の動きを見渡しやすくする工夫だったと伝えられます。

石川門は金沢城の正門にあたる?

いいえ。石川門は城の裏口にあたる搦手門で、正門にあたるのは「河北門」です。河北門は明治以降失われていましたが、2010年に古絵図をもとに復元されています。

金沢城公園と兼六園はどんな関係?

もともとは同じ城の敷地内にあり、兼六園は歴代の加賀藩主が手がけた庭園でした。現在は道路を挟んだ別々の公園ですが、兼六園が江戸期の庭園そのものを今に伝えるのに対し、金沢城公園で見られる菱櫓・五十間長屋・河北門などの建物の多くは2001年以降に復元されたものという違いがあります。

金沢城の近くには他にどんな史跡がある?

徳川幕府との緊張関係が続いた時代、城下には妙立寺(通称・忍者寺)のような、外観からは分からない防御の仕掛けを備えた寺院も建てられました。城だけでなく城下町全体に、有事に備えた工夫が張り巡らされていたことがうかがえます。

出典・参考

※ 由来に諸説あるものは「諸説あり」として記載しています。読み・由来は公開情報にもとづきますが、最新の情報は各出典でご確認ください。

執筆: LoreMania編集部/出典検証: 各項目に明記

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