Q1. 加賀藩(加賀百万石)の礎を築き、天正11年(1583年)に金沢城の城主となった戦国武将は誰か。
- 上杉謙信
- 前田利家
- 伊達政宗
- 毛利元就
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正解前田利家
前田利家は織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将で、天正11年(1583)に金沢城へ入り、加賀藩前田家の礎を築いた。以後、前田家の治世は明治維新まで続き、寺町の配置や用水網など、いまの金沢の街の骨格はこの城下町づくりに始まっている。
出典:戦国時代~江戸時代

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まずは、金沢の名刺代わりの10問から。兼六園と金沢城、ひがし茶屋街、金箔に加賀友禅——旅行のパンフレットにも必ず載る定番の顔ぶれを、一歩だけ踏み込んで問います。10問すべて正解なら、旅の案内役は任せられる水準です。答えを開けば、解説と出典で「なぜそうなのか」まで確かめられます。肩ならしのつもりで、どうぞ。
正解前田利家
前田利家は織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将で、天正11年(1583)に金沢城へ入り、加賀藩前田家の礎を築いた。以後、前田家の治世は明治維新まで続き、寺町の配置や用水網など、いまの金沢の街の骨格はこの城下町づくりに始まっている。
出典:戦国時代~江戸時代
正解兼六園
兼六園は加賀藩前田家の歴代藩主が長い年月をかけて育てた、江戸時代を代表する大名庭園で、他の2つの名園とともに日本三名園の一つに数えられる。園内には徽軫灯籠や日本最古とされる噴水など見どころが多く、四季を通じて多くの人が訪れる。
出典:(国指定)兼六園
正解○(正しい)
雪吊りは、支柱を立てて縄を放射状に枝へ張り、北陸の湿った重い雪から庭木を守る冬支度の技法。兼六園では毎年11月1日ごろ、唐崎松を皮切りに作業が始まり、円錐形に張られた縄の意匠が冬の金沢を代表する風物詩になっている。
出典:兼六園の雪吊りについて
正解石川門
石川門は天明8年(1788)に再建された城門で、昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定された。白く見える屋根は鉛瓦で葺かれており、兼六園と向かい合う位置に立つことから、金沢城公園の事実上の正面玄関として親しまれている。
出典:金沢城石川門・三十間長屋
正解江戸時代に加賀藩から公許された、芸妓らの茶屋が並ぶ茶屋街
ひがし茶屋街は文政3年(1820)、城下に点在していた茶屋を加賀藩が公認して集めた茶屋街で、いまも料亭や芸妓の文化が受け継がれている。金沢には、ひがし・にし・主計町の三つの茶屋街が残り、格子戸の町並みが藩政期の面影を伝える。
正解○(正しい)
金沢は国内生産の約99%を占める、日本最大の金箔の産地。400年以上の歴史を持つとされ、湿度の高い気候と職人の技が極薄の箔づくりを支えてきた。
正解京友禅とは異なる、金沢独自の友禅染めである
加賀友禅は金沢に受け継がれてきた友禅染めで、藍・臙脂・黄土・草・古代紫の「加賀五彩」を基調に、草花を写実的に描くのが特徴。金箔や刺繍などの加飾をほとんど使わない点が、華やかな京友禅との大きな違いとされる。
正解黒に近い濃い色でとろみのあるルーを、フォークで食べる
金沢カレーは、黒に近い濃色でとろみの強いルーをステンレスの皿に盛り、キャベツの千切りを添えてフォークで食べるのが定番のスタイル。昭和30年代に金沢の洋食店で生まれたカレーが原型とされ、チェーン店を通じて市外・海外へも広がった。
出典:金沢カレーの歴史
正解○(正しい)
金沢は第二次世界大戦で大規模な空襲を受けなかったため、長町の武家屋敷跡や三つの茶屋街など、藩政期からの町並みが広い範囲で残った。城下町の姿を現代までとどめる大都市は全国でも少なく、金沢の観光と文化の土台になっている。
出典:昭和時代
正解金沢三文豪
泉鏡花・室生犀星・徳田秋声の3人は、いずれも明治期の金沢に生まれ、「金沢三文豪」と並び称される。市内にはそれぞれの記念館が置かれ、幻想文学の鏡花、詩情の犀星、自然主義の秋声と、作風の違いも読み比べの楽しみになっている。
出典:ちょこっと文学
ここからは、金沢に住んでいる人でも意見が割れる15問。兼六園が最初に何と呼ばれていたか、辰巳用水を引いた町人の名、金箔一枚の薄さ——「聞いたことはあるが、正確には言えない」領域に入ります。歴史の問いには年号の手がかりを添えました。迷ったら、まず前田家の藩主の代替わりを思い浮かべると筋道が見えてきます。
正解蓮池庭(れんちてい)
5代藩主・前田綱紀が延宝4年(1676)に別荘の周りを庭園化したものが「蓮池庭」と呼ばれ、兼六園の原型となった。その後も歴代藩主が手を加え続け、文政5年(1822)に「兼六園」と改称。一人の作庭家ではなく、藩主たちの営みの積み重ねでできた庭である。
出典:兼六園の歴史|兼六園
正解佐久間盛政
天正8年(1580)、柴田勝家の甥・佐久間盛政が一向一揆の拠点「金沢御堂」を攻め落とし、この地に金沢城の前身となる城を構えた。盛政が賤ヶ岳の戦いで敗れると前田利家が入城し、本格的な天守を築く。城の歴史は、前田家より一足早く始まっていた。
正解板屋兵四郎
辰巳用水は寛永9年(1632)、3代藩主・前田利常の命により、金沢城の防火用水などを確保するために開削された。設計・施工を担ったと伝わるのは、小松の町人・板屋兵四郎。犀川上流から城下まで、長い隧道(トンネル)区間を含む難工事だった。
正解金箔ソフトクリーム
ひがし茶屋街の金箔専門店などが提供する「金箔ソフトクリーム」は、ソフトクリームに金箔を丸ごと一枚のせる見た目のインパクトから、2015年の北陸新幹線金沢開業前後に人気が広がった金沢の新定番スイーツである。
出典:箔一
正解1万分の1ミリメートルほど
金沢の金箔は、厚さ1万分の1ミリメートルほどまで打ち延ばされる。10円玉ほどの金合金が畳1枚分近くまで広がる薄さで、わずかな風でも舞うため、職人は竹箸で扱う。この極薄が、仏壇仏具から建築、工芸までの幅広い用途を支えている。
出典:当館の概要
正解宮崎友禅斎
友禅染めの様式を確立したと伝わる扇絵師・宮崎友禅斎は、京都で人気を博したのち、正徳2年(1712)に金沢へ移り住んだ。加賀藩御用の染物屋に身を寄せ、斬新な模様染めを次々と創案して加賀友禅の発展を後押ししたとされる。「友禅」の名は、この友禅斎に由来する。
正解事前予約
妙立寺は自由拝観ができず、事前予約制のガイドツアー形式で見学する。所要時間は約40分で、当日ふらっと訪れても入館できないため、電話やインターネットでの事前予約が欠かせない。
出典:妙立寺(忍者寺)
正解金獅子賞(きんじしょう)
金沢21世紀美術館は2004年9月、ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展で最高賞の金獅子賞を受賞した。設計は妹島和世と西沢立衛の建築家ユニットSANAA。円形ガラス張りの「まちに開かれた公園のような美術館」という構想が、開館前から世界的な評価を受けた。
出典:History | About | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa
正解約30分
北陸鉄道石川線は、金沢市内の野町駅から白山市の鶴来駅までを結ぶローカル線で、所要時間は約30分。日中は約60分間隔(朝は15〜20分間隔)で運行され、通学・通勤で日常的に利用される地元の足である。
出典:北陸鉄道石川線
正解なれずし
かぶら寿しは、塩漬けにしたカブに塩ブリを挟み、米麹で漬け込んで発酵させる「なれずし」の一種。酢飯を握る寿司より古い形式で、麹の甘みと発酵の酸味が持ち味になっている。寒さの厳しい北陸の冬に仕込まれる、金沢の正月に欠かせない伝統食である。
正解源助だいこん
源助だいこんは、ずんぐりした白い姿と、煮崩れしにくい肉質が持ち味の加賀野菜。だしがよく染みるため、金沢おでんの定番種になっている。「加賀野菜」は昭和20年(1945)以前から金沢で栽培されてきた品種を市が認定するブランドで、15品目が名を連ねる。
正解三十間長屋/鶴丸倉庫/石川門
明治14年(1881)の火災の後も残った江戸期の建物は、石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫の3棟のみで、いずれも国の重要文化財。天守は慶長7年(1602)の落雷で焼失して以来、再建されていない。現在の五十間長屋などは、平成13年(2001)に伝統工法で復元されたものである。
正解最大で約100万石の石高を誇った/前田利家が加賀藩の藩祖(初代)である/歴代藩主は金沢城を居城とした/前田家は明治維新までお家断絶することなく藩主を務め続けた
前田家は利家を藩祖とし、最大約100万石の表高を誇った、将軍家を除けば全国最大の大名家。歴代藩主は金沢城を居城とし、明治維新までお家断絶なく続いた。軍事よりも学問や工芸の振興に力を注いだ統治が、いまの金沢の文化都市としての性格につながっている。本拠はもちろん京都ではなく金沢である。
正解30本以上
香林坊地区ツリーファンタジーは、国道157号沿いに立ち並ぶ30本以上のケヤキにイルミネーションを灯す冬の風物詩で、香林坊の街を幻想的な雰囲気に彩る。買い物客で賑わう繁華街ならではの季節のイベントとして定着している。
出典:香林坊商店街振興組合
正解21:00
金沢城公園の夜間ライトアップは、毎週土曜日や観桜期などの行楽期に実施され、入園は無料。時間は日没から21:00までで、玉泉院丸庭園や三の丸広場がライトアップされた幻想的な夜の城跡を楽しめる。
出典:夜間開園・ライトアップ
仕上げは、金沢通を名乗る前の関門となる15問。天守なき百万石の城の事情、「六勝」ということばの出典、箔打ち禁止令の抜け道——本で言えば脚注にあたる知識を問います。並べ替えや複数選択の形式も交じるため、断片の知識を年表と地図の上でつなぎ直す力が試されます。ここを越えたら、本番の検定でも上位の称号を狙えるはずです。
正解徳川幕府に軍事力を誇示していると疑われることを避けるため
天守焼失後は三階櫓が代わりを務めたが、これも後の火災で失われた。外様の大藩だった加賀藩は、徳川家に軍事的野心を疑われることを避けるため、あえて天守を再建しなかったと考えられている。百万石の居城に天守がないという事実そのものが、前田家の慎重な処世を物語っている。
正解宏大(こうだい)/蒼古(そうこ)/水泉(すいせん)
六勝とは、宋代の『洛陽名園記』に由来する宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観要素。「宏大」と「幽邃」のように本来は両立しがたい性質とされ、そのすべてを兼ね備える庭として、文政5年(1822)に「兼六園」の名が与えられた。命名者は奥州白河藩主・松平定信と伝わる。
正解上流の霞ヶ池との高低差を利用した自然の水圧で吹き上げている
この噴水は霞ヶ池を水源とし、池との高低差が生む自然の水圧だけで水を噴き上げる。ポンプも動力も使わないため、水の高さは霞ヶ池の水位に応じて微妙に変わる。19世紀半ば、金沢城内へ水を揚げる試みの試作として造られたと伝わり、日本最古の噴水とされる。
正解約102万石
加賀藩の表高は、3代藩主・前田利常が子息に富山藩・大聖寺藩を分知した後も約102万5000石を保ち、将軍家を除く全国の大名の中で最大であり続けた。2位以下を大きく引き離す、別格の「一番大名」である。「加賀百万石」の呼び名は、この抜きん出た石高に由来する。
出典:百万石の「一番大名」
正解菅原道真
加賀梅鉢紋は、学問の神・菅原道真を祀る天神信仰の梅鉢紋に由来し、前田家は道真の後裔を称した。この専用意匠を使い始めたのは江戸時代に入ってからで、藩祖・利家の代には一般的な梅鉢紋が使われていたとみられる。家紋にも、家格を高める演出が込められていた。
正解享保6年(1721)
元禄3年(1690)の大火をきっかけに浅野川口の魚市場が近江町へ移り、享保6年(1721)に犀川口の魚市場も合流して、近江町市場が形づくられた。名は近江商人が住んでいたことにちなむと伝わる。以来300年、「金沢市民の台所」であり続けている。
出典:近江町市場商店街振興組合
正解京都・江戸
江戸幕府の「箔打ち禁止令」により、金箔づくりは原則として京都・江戸以外では禁じられた。それでも加賀藩では密かに製造が続けられ、幕末になってようやく藩御用に限り公認される。統制の下でも技を絶やさなかったことが、明治以降に金沢が全国の生産をほぼ独占する下地になった。
出典:金沢と金箔
正解藍(あい)/臙脂(えんじ)/黄土(おうど)/古代紫(こだいむらさき)
加賀五彩は藍・臙脂・黄土・草・古代紫の5色。この深く落ち着いた色調を基調に、ぼかしや「虫食い」の表現で草花を写実的に描く。金箔や刺繍といった染色以外の加飾をほとんど用いないのが京友禅との大きな違いで、金色を基調色に使うことはない。
出典:加賀友禅を知る
正解裏千家4代・千宗室(仙叟)
前田綱紀は裏千家4代千宗室(仙叟)を茶道奉行として京都から招いた。このとき同行した陶工・土師長左衛門が金沢に留まり大樋村で陶土を発見、大樋焼の初代となった。独特の飴色の釉薬(飴釉)と、ろくろを使わない手ずくねの技法が特徴。
正解5代藩主・前田綱紀
5代藩主前田綱紀は、将軍徳川綱吉が宝生流を重んじていたことにならい宝生流を学び、江戸城で自ら舞を披露した。以後、金沢では大工や左官までもが謡を口ずさむほど能楽が浸透し「加賀宝生」と呼ばれる土壌が育まれた。
出典:加賀宝生とは
正解谷口吉生
鈴木大拙館は、金沢市出身の仏教哲学者・鈴木大拙の考えにふれるための施設。設計は金沢にゆかりの深い建築家・谷口吉生で、水面が静けさを映す「水鏡の庭」と「思索空間棟」を回廊がつなぐ。展示は最小限に絞られ、来館者自身が考えるための建築になっている。
出典:施設概要|鈴木大拙館
正解生家近くを流れる犀川から名をとった
室生犀星(1889-1962)の筆名は、生家近くを流れる犀川に由来し、その西岸で育ったことから「犀西」に通じる「犀星」の字をあてたもの。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の一節で知られ、金沢三文豪のなかでは詩と小説の双方に大きな足跡を残した。
正解クラフト&フォークアート(民俗芸術)分野
金沢市は2009年、神戸市・名古屋市(ともにデザイン分野)に次いで日本で3番目にユネスコ創造都市ネットワークへの加盟が認定され、「クラフト&フォークアート」分野ではアジアで初の認定都市となった(同分野では2005年認定のアスワン・サンタフェに続く)。金箔・加賀友禅・大樋焼など、藩政期から続く工芸の集積が評価の土台にある。
ヒント: 前田家が金沢に根を下ろした出来事が最初
正解前田利家が金沢城に入城する → 辰巳用水が完成する → 妙立寺(忍者寺)が建立される → 「兼六園」と名付けられる
前田利家の金沢城入城(1583年)→辰巳用水の完成(1632年)→妙立寺の建立(1643年)→兼六園命名(1822年)の順。入城から用水・寺町の整備までがおよそ60年、庭園に「兼六園」の名が付くのはさらに180年ほど後で、城下町の完成が長い年月をかけた事業だったことがわかる。
出典:戦国時代~江戸時代
ヒント: 現代美術館の開館が最も早い
正解金沢21世紀美術館が開館する → 金沢市がユネスコ創造都市ネットワークに加盟認定される → 鈴木大拙館が開設される → 北陸新幹線が長野から金沢まで延伸開業する
金沢21世紀美術館の開館(2004年)→ユネスコ創造都市ネットワーク加盟認定(2009年)→鈴木大拙館の開設(2011年)→北陸新幹線金沢延伸開業(2015年)の順。2000年代以降の金沢が、現代アートと伝統文化の両輪で都市の顔をつくり直し、新幹線開業で全国区になった流れが読み取れる。