Q1. 会津若松市の鶴ヶ城に、東日本で初めて石垣や堀を備えた本格的な近世城郭を築いた戦国大名は?
- 伊達政宗
- 蒲生氏郷
- 上杉景勝
- 加藤嘉明
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正解蒲生氏郷
蒲生氏郷は文禄元年(1592)、それまで黒川と呼ばれたこの地で城の大改修に着手し、東日本で初めて石垣や濠を備えた本格的な近世城郭を築いた。翌年完成した天守閣に「鶴ヶ城」と名付け、地名も「若松」に改めており、会津若松の街の骨格はこのときに始まる。
出典:鶴ヶ城のご案内

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まずは、会津若松の入り口となる10問。鶴ヶ城の天守を彩る瓦の色、二重らせんの不思議なお堂、「ならぬことはならぬ」の教え——この街を語るうえで欠かせない題材を選びました。城と武士の記憶、そして張子や漆器といった手仕事の文化。答えを開けば、それぞれの背後にある物語を出典つきの解説で確かめられます。街歩きの予習のつもりで、どうぞ。
正解蒲生氏郷
蒲生氏郷は文禄元年(1592)、それまで黒川と呼ばれたこの地で城の大改修に着手し、東日本で初めて石垣や濠を備えた本格的な近世城郭を築いた。翌年完成した天守閣に「鶴ヶ城」と名付け、地名も「若松」に改めており、会津若松の街の骨格はこのときに始まる。
出典:鶴ヶ城のご案内
正解日本さくら名所100選
鶴ヶ城公園は「日本さくら名所100選」の一つに選ばれ、多くの桜が植えられた花見の名所として知られる。例年4月中旬から下旬に見頃を迎え、開花期には「鶴ヶ城さくらまつり」も開催される。
正解飯盛山
戸の口原の戦いから退いた白虎隊士中二番隊の少年たちは、飯盛山から黒煙に包まれた鶴ヶ城を望み、「城は落ちた」と思い込んで、この地で自らの命を絶った。実際には城は開城前だった。山上には十九士の墓が建ち、いまも静かに手を合わせる人が絶えない。
正解さざえ堂
さざえ堂(正式名称・円通三匝堂)は、江戸時代に建てられた六角三層のお堂。堂内はらせん状のスロープになっており、参拝者同士がすれ違わずにお参りできるつくりが特徴。世界的にも類例の少ない構造とされ、国の重要文化財に指定されている。
正解會津藩校日新館
日新館は享和3年(1803)に開かれた会津藩の藩校。入学前の子どもたちは「什」と呼ばれる集まりで『什の掟』を学び、その掟はどの条文も「ならぬことはならぬものです」で結ばれていた。この教えは現在も「あいづっこ宣言」として会津若松市の子どもたちに受け継がれ、学校で暗唱されている。
出典:会津藩校日新館 / 什の掟・日新館の教え会津藩松平容頌が作った什の掟を紹介しています「あいづっこ宣言」各種ダウンロードはこちらから
正解ほおずき市
ほおずき市は会津若松市の夏の風物詩で、毎年7月10日に開催される。商店街を歩行者天国にしてほおずきの販売やふるまい酒、子供神輿などが行われ、浴衣姿の人々でにぎわう。
出典:ほおずき市
正解赤べこ
赤べこは、紙を重ねて作る張子の郷土玩具で、首がゆらゆらと揺れる愛嬌のある姿が特徴。赤い色には疫病を払う願いが込められているとされる。子どもの健康を祈る魔除けとして、会津の家々で長く親しまれてきた。
出典:アカベコランド
正解会津塗
会津塗は会津若松を中心に作られる漆器の総称で、昭和50年(1975)に国の伝統的工芸品に指定された。戦国時代、会津の領主が前の領地から木地師や塗師を呼び寄せ、産業として奨励したことが始まりと伝わる。花塗や蒔絵など独自の技を今に伝える。
出典:福島県・会津塗
正解リオンドール
リオン・ドールコーポレーションは会津若松市に本社を置く食品スーパーマーケットチェーンで、地域密着の店づくりで地元の暮らしに根づいている。
正解七日町通り
七日町通りには20世紀初め頃(大正期前後)の洋館や蔵造りの建物が残り、レトロな街並みで人気を集める。藩政時代には越後街道など主要な街道が交わる要所で、問屋や旅籠が軒を連ねてにぎわった。会津塗や絵ろうそくの店を巡る街歩きが楽しい。
続く15問では、会津の歴史を動かした人々に踏み込みます。将軍の弟でありながら会津に骨を埋めた藩祖、茶の湯の命脈を会津でつないだ大名、籠城戦を銃で戦った女性——人物の問いが軸です。あわせて、海のない盆地が育てた食と手仕事の知恵も。「誰が、どこから、何を持ち込んだか」という視点を持つと、会津の文化史がひとつながりに見えてきます。
正解千利休の子・少庵
千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられたのち、利休の茶道が絶えるのを惜しんだ蒲生氏郷は、利休の子・少庵を会津に招いてかくまったと伝わる。麟閣はその折に建てられたとされる茶室で、現在は鶴ヶ城公園内にあり、いまも茶会が開かれている。
出典:茶室麟閣
正解彼岸獅子
彼岸獅子は、春の彼岸入りとともに笛と太鼓の音色に導かれて三体の獅子が会津の城下を巡る伝統行事。豊作への願いと家内安全、春の訪れを喜ぶ舞として、鶴ヶ城や阿弥陀寺など市内各所で披露される。
出典:会津彼岸獅子
正解保科正之
保科正之は2代将軍徳川秀忠の子で、3代将軍家光の異母弟。寛永20年(1643)に出羽山形から23万石で会津に入り、会津藩の藩祖となった。のちの3代藩主・正容のとき(1696年)には将軍の許しで松平姓と葵の紋を用いるようになり、以後、幕末までこの家が会津を治めた。
出典:鶴ヶ城のご案内
正解東山温泉盆踊り
東山温泉盆踊りは、昭和19年に東山の旅館へ疎開してきた子どもたちを慰めるために始まったとされる夏祭り。湯川に組まれた櫓の周りで、民謡「会津磐梯山」の唄とお囃子に合わせて、旅館の女将や芸者衆も一緒になって踊りの輪を作る。
出典:東山温泉盆踊り
正解リバティ会津
東武鉄道の特急「リバティ会津」は、浅草から東武線・野岩鉄道・会津鉄道を通じて会津田島駅まで直通運転する。会津若松へは会津田島から「リレー号」に接続してアクセスできる。
正解ハスの花
御薬園は歴代会津藩主も愛した大名庭園で、国指定名勝。夏になると池のハスの花が見頃を迎え、開花期には市民が無料で招待される鑑賞会も開かれるなど、地域の人々に親しまれている。
正解家老
会津武家屋敷の中心は、会津藩の家老・西郷頼母の屋敷の復元である。敷地約2,400坪・部屋数38室と伝わる壮大な邸宅は戊辰戦争で焼失したが、発見された鳥瞰図などの史料をもとに綿密な時代考証を重ね、昭和50年(1975)に再現された。
出典:会津武家屋敷
正解史跡内をライトアップした夜桜
鶴ヶ城さくらまつりは、桜の見頃にあわせて史跡内全体をライトアップし、東日本最大級の規模で夜桜を楽しめることで知られるお花見イベントである。
正解ソースカツ丼
会津若松のソースカツ丼は、揚げたカツを甘辛いソースにくぐらせ、千切りキャベツを敷いたご飯にのせるのが一般的なスタイル。市内には専門店・老舗が数多くあり、店ごとに味の個性を競う人気のご当地グルメとなっている。
正解電信技士
飯盛山で自刃した白虎隊士20人のうち、ただ一人生き残ったのが飯沼貞吉である。のちに名を貞雄と改め、電信技士として明治・大正の通信の発展に力を尽くした。彼が語り残したことによって、白虎隊の顛末は後世に伝えられることになった。
正解伊予(松山)
会津木綿の多彩な縞柄は、江戸時代に伊予松山から会津へ入った藩主が織師を招き、伊予伝来の縞織りの技術が根づいたことによるとされる。厚手で丈夫な質感も特徴で、綿花栽培の北限とされる会津では繊維の短い綿から太い糸が生まれるためといわれる。
出典:会津木綿とは
正解北海道
海から遠い会津では、江戸時代、北海道から運ばれる乾物の「身欠きにしん」が貴重なたんぱく源だった。にしんの山椒漬けは、これを山椒の葉とともに酢や醤油などで漬け込む郷土料理で、専用の陶器「にしん鉢」があるほど暮らしに根づいた一品である。
出典:にしんの山椒漬け 福島県
正解家族の人数より1個多く買う
起き上がり小法師は、何度倒しても起き上がる姿が縁起物とされる会津の郷土玩具。約400年前から伝わり、正月に売り出されたのが始まりとされる。毎年1月10日の初市「十日市」では、家族が増えるようにと人数より1個多く買う風習が続いている。
正解干し貝柱
こづゆは、ホタテの干し貝柱でとった出汁に、里芋やきくらげ、豆麩など細かく切った具材を合わせた会津の椀物。冠婚葬祭などハレの日に欠かせない祝いの料理で、会津塗の朱塗りの椀で供され、何杯おかわりしてもよいのが習わしとされる。
出典:こづゆ 福島県
正解2022年
JR只見線は会津若松と新潟県の小出を結ぶローカル線。2011年7月の新潟・福島豪雨で会津川口〜只見間が不通となったが、2022年10月1日、約11年ぶりに全線で運転を再開した。四季の渓谷美で知られ、再開後は国内外から乗客を集めている。
仕上げは、会津通を名乗るための15問。天守台の石の積み方、殿様だけが通れた門、そして戊辰の戦火を生きた人々の足取り——史料の細部に宿る知識を問います。白虎隊やその時代の問いには、悲劇を消費しないよう、事実を確かめるための出典を添えました。並べ替え問題では領主の変遷が鍵になります。この15問を越えれば、城の石垣のひとつひとつが違って見えるはずです。
正解幼名「鶴千代」、家紋「立鶴」
鶴ヶ城の名は、名付け親と伝わる蒲生氏郷の幼名「鶴千代」と、蒲生家の家紋「立鶴」にちなむとする説が伝わる(諸説あり)。国の史跡としての正式名称は「若松城跡」だが、地元では今も「鶴ヶ城」の呼び名で親しまれている。
正解野面積み/打ち込み接/切り込み接
鶴ヶ城公園では3種類の石垣の積み方を見比べられる。天守台を支えるのは、自然石をほとんど加工せずに積んだ約400年前の「野面積み」。大手門(太鼓門)付近には表面を打ち欠いた「打ち込み接」、鉄門の西側には四角形に整形した「切り込み接」が見られる。「空積み」「谷積み」はここでは見られない。
正解門全体に鉄を貼り、藩主や家族、客人だけが通ることを許された特別な門だった
鉄門(くろがねもん)は、扉や柱に鉄板を貼って格調の高さを示した門。通ることを許されたのは藩主とその家族、そして客人だけで、家来は別の木造の門を使ったという。人の身分によって門まで使い分けた、城の格式を物語る建物である。
ヒント: 最も古いのは南北朝時代から続く一族
正解蘆名氏 → 蒲生氏(最初の入城) → 伊達氏 → 上杉氏
会津は1384年に蘆名氏がこの地に館を築いて以来、蘆名氏の支配が約200年続いた。1589年、摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名氏を破って会津に入るが、翌1590年には豊臣秀吉の命で蒲生氏郷に引き継がれ、1598年には上杉景勝が会津へ移った。天下人の意向で領主がめまぐるしく替わった時代である。
出典:鶴ヶ城のご案内
正解黒煙の中に見え隠れする鶴ヶ城を見て落城したと思い込んだが、実際は城下の火災で、城はまだ落城していなかった
飯盛山から見えたのは、城そのものではなく城下の火災の煙だったとされる。黒煙の中に見え隠れする鶴ヶ城を「落城した」と思い込んだ少年たちは、その場で自刃を選んだ。実際には城は落ちておらず、籠城戦はこのあと約1ヶ月続いた。知らせを確かめるすべのないまま下された、痛ましい判断だった。
出典:白虎隊
正解鳥羽伏見の戦いが始まった → 新政府軍が母成峠を突破し会津領内へ進軍した → 約1ヶ月にわたる鶴ヶ城の籠城戦が続いた → 鶴ヶ城が開城し降伏した
慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まり、同年8月には新政府軍が母成峠の防衛線を突破して会津領内へ進軍した。鶴ヶ城は約1ヶ月におよぶ籠城戦に耐えたのち、開城して降伏する。白虎隊の悲劇も、この過程で起きた出来事である。
出典:白虎隊
正解小田山
小田山は鶴ヶ城の東にある標高335mの山。会津戦争では新政府軍がここに大砲を据え、天守閣をめがけて砲弾を撃ち込んだ。流れ弾や不発弾は、城の東にある藩主ゆかりの庭園・御薬園の池にも落ちたと伝わる。砲撃にさらされながら、城は約1ヶ月耐え続けた。
出典:御薬園の始まりと歴史
正解中野竹子
中野竹子は、なぎなたの達人と伝わる会津藩士の娘。会津戦争では女性たちによる「娘子隊」を結成して指揮をとり、なぎなたに辞世の句を結びつけて出陣、新政府軍との交戦で命を落としたと伝えられる。八重らとともに、戦火の中で戦うことを選んだ会津の女性として語り継がれる。
出典:中野竹子殉節碑
正解天文台/水練場(プール)/文庫(図書館)
日新館には天文台や水練場(プール)、文庫(図書館)までが備えられ、当時の藩校として全国でも屈指の設備を誇った。朱子学を基本に武芸も修める文武両道の教育が行われ、白虎隊の少年たちもここで学んだ。選択肢にある温泉施設は存在しない。
出典:白虎隊
正解越後街道・米沢街道・下野街道など会津五街道の主要道が交わり、問屋や旅籠が並ぶ町だった
藩政時代の七日町通りは、越後街道・米沢街道・下野街道といった会津五街道の主要道が交わる要所で、問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねてにぎわった。城下の玄関口として人と物資が行き交ったこの通りには、今も老舗や蔵が残り、街道町の記憶を伝えている。
出典:七日町通り
正解1850年
末廣酒造は嘉永3年(1850)創業の老舗。七日町通りに面した「嘉永蔵」には創業当時の面影を残す土蔵造りの建物が残り、酒蔵見学もできる観光名所となっている。会津は良質な水と米に恵まれた酒どころとして知られる。
出典:末廣酒造 嘉永蔵
正解奥羽三楽郷
東山温泉は、山形県の上山温泉・湯野浜温泉とともに「奥羽三楽郷」と並び称されてきた。いずれも古くから栄えた東北の名湯である。会津若松の市街地から車で10分ほどという近さで、「会津の奥座敷」として、いまも湯治や宴席の客を迎えている。
出典:東山温泉
正解上塗りの後にさらに研ぎ上げることをせず、塗肌を活かした柔らかみのある仕上がりになる
花塗(塗り立て)は、上塗りの後に研ぎ上げを行わず、塗り肌をそのまま生かして仕上げる会津塗の代表的な上塗り技法。むらなく塗り上げるには高い技術が求められ、柔らかみのある独特の艶が生まれる。加飾では「消金地」が会津の独壇場といわれる。
出典:福島県・会津塗
正解「こじゅうのつゆ」
「こづゆ」の名は、「こじゅうのつゆ」がなまったものと言われる。細かく切った具材を淡い出汁で炊き合わせた会津地方(南会津を除く)の郷土料理で、冠婚葬祭などハレの日にふるまわれてきた。会津の祝いの席に欠かせない一椀として、いまも受け継がれている。
出典:こづゆ 福島県
ヒント: 現在の長野県にあった藩
正解信州高遠
保科正之はもともと信州高遠藩の藩主で、山形を経て会津に移った。そば文化の盛んな高遠からそば職人を連れてきたことが、会津にそばが根づいた一因といわれ、「高遠そば」という食べ方の名にその縁が残る。会津は今も「そばの里」として知られる。