博多の歴史 ── 福博の二極と金印・元寇・太閤町割

「福岡」と「博多」、なぜ二つの名前があるのでしょう。その問いをほどくと、福岡市の歩んできた歴史が見えてきます。
古代の外交拠点から、商人の町、そして黒田家の城下町へ。福岡市は重層的な歴史を重ねてきました。
ここでは押さえておきたい歴史の節目を、出来事ごとに紹介します。
古代・中世の福岡を知る
金印「漢委奴国王」きんいん
江戸時代に志賀島で発見されたと伝わる、「漢委奴国王」と刻まれた金印。古代に中国の皇帝から授けられたものとされ、国宝に指定されている。現在は福岡市博物館(早良区百道浜)に収蔵され、古代日本と大陸の交流を物語る至宝として知られる。
出典:福岡市博物館 公式サイト
鴻臚館こうろかん
飛鳥から平安期にかけて置かれた、外国の使節をもてなす迎賓館。大陸との外交や交易の窓口として機能し、唐や新羅との往来を支えた。跡地は現在の中央区、福岡城に近い一帯とされ、発掘調査で姿が明らかになってきた。
出典:福岡市 公式ホームページ
元寇と元寇防塁げんこう
鎌倉時代に二度にわたって押し寄せた元(蒙古)の襲来を元寇と呼ぶ。再来に備えて博多湾沿いに石積みの防塁が築かれ、その遺構は元寇防塁として今も各所に残る。武士たちが海岸線で迎え撃った歴史を伝える貴重な史跡である。
出典:福岡市 公式ホームページ
近世の福岡を形づくった出来事
黒田長政と福岡城くろだながまさとふくおかじょう
関ヶ原の戦いの功で筑前に入った黒田長政が、新たに築いたのが福岡城。舞鶴城の別名でも呼ばれ、現在の舞鶴公園一帯にその石垣や櫓が残る。黒田家の城下町づくりが、のちの「福岡」という地名の由来にもつながった。
出典:福岡市 公式ホームページ
福博の二極ふくはくのにきょく
那珂川を境に、東側は古くからの商人町「博多」、西側は黒田家の城下町「福岡」として発展した。性格の異なる二つの町が並び立つ構造が、市名と地域名の使い分けに今も残る。両者の個性が福岡市の厚みを生んでいる。
出典:福岡市 公式ホームページ
太閤町割たいこうまちわり
戦乱で焼けた博多を、豊臣秀吉が1587年ごろに碁盤目状へ区画し直したと伝わる都市再建。道筋と町割を整えて復興を促し、現在の博多旧市街の街路の骨格をかたちづくった。今に続く「流」という町のまとまりも、この区画割りから生まれたとされる。
出典:福岡市 公式ホームページ
博多三傑はかたさんけつ
中世から近世にかけて博多の復興と発展に尽くした、神屋宗湛・島井宗室・大賀宗九の博多商人を指すと伝わる。茶の湯や海外貿易を通じて時の権力者とも結びつき、商人町・博多の繁栄を支えた。博多商人の気概を象徴する顔ぶれである。
出典:福岡市 公式ホームページ
よくある質問
結局、福岡と博多はどう使い分けるのが正しいのですか。
行政上の市名は「福岡市」で、JRの主要駅や旧来の商人町エリアが「博多」と呼ばれます。城下町に由来するのが福岡、商人町に由来するのが博多と捉えると、二つの名が並び立つ理由が分かりやすくなります。
金印の本物を見ることはできますか。どこへ行けばよいですか。
金印は福岡市博物館(早良区百道浜)に収蔵されており、常設展示で目にすることができます。出土地と伝わる志賀島は東区にあり、史跡として訪ねることもできます。