筑波研究学園都市はどう生まれた? 1963年の閣議了解から万博まで

首都圏に人が集まりすぎる――そんな課題を解決するために、国が一からまちを設計したとしたら。つくば市の始まりは、まさにその発想から生まれました。
つくば市の骨格をつくったのは、1963年に閣議了解された「研究学園都市」構想でした。首都圏の過密対策として、筑波山麓に国立の研究機関や大学を集約する計画です。
以来60年余り、筑波大学の開学、JAXA筑波宇宙センターの稼働、そして1985年の国際科学技術博覧会(つくば万博)を経て、まちは「科学のまち」としての顔を形づくってきました。その歩みをたどります。
1963年、閣議了解という出発点
研究学園都市構想の閣議了解(1963年)けんきゅうがくえんとし
1963年9月、政府は首都圏への人口集中を緩和する対策として、筑波山麓におよそ4000haの規模で研究学園都市を建設することを閣議了解しました。東京にあった国の試験研究機関や大学を計画的に移転・集約するという、当時としては前例の少ない発想の都市計画で、現在のつくば市の骨格はここから始まります。
筑波大学:「学群・学類」を掲げた新構想大学
JAXA筑波宇宙センター:日本の宇宙開発拠点
1972年開設、宇宙飛行士訓練も担う拠点つくばうちゅうセンター
筑波宇宙センターは1972年、当時の宇宙開発事業団(NASDA)がN-Iロケットの打ち上げ準備を始めたことをきっかけに開設されました。敷地面積は約53万平方メートルにおよび、国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の運用に関わる宇宙飛行士訓練なども行われる、JAXA屈指の規模を誇る拠点です。春と秋の年2回、一般向けの施設公開も行われています。
1985年、科学万博つくば'85
48カ国参加、約2033万人が来場かがくばんぱく
1985年3月から9月にかけて開かれた国際科学技術博覧会(つくば万博)は、研究学園都市の一角、約101.6haを会場に、48カ国・37の国際機関が参加して開催されました。会期184日間で約2033万人が来場し、会場に埋設された「ポストカプセル2001」には全国から寄せられた約326万通もの手紙が収められています。閉幕後の跡地には、科学館「つくばエキスポセンター」が開設されました。
よくある質問
つくば市の人口はどれくらい?
2025年時点でおよそ26万人とされ、茨城県内でも人口の多い市の一つです。研究学園都市として計画的に整備された市街地に加え、つくばエクスプレス沿線での宅地開発が進んだことも、近年の人口増加を後押ししています。
研究学園都市と一般的な「ニュータウン」はどう違う?
ニュータウンが主に住宅地の供給を目的とするのに対し、研究学園都市は国立の研究機関や大学を意図的に集約させた「頭脳の移転」が目的である点が異なります。つくばには現在も数多くの公的研究機関が立地し、研究者や学生が人口の多くを占めるまちという性格を保っています。