諏訪盆地はなぜ人を集めたか―湖と峠の記憶

諏訪の歴史は、ひとつの湖と、それを囲む峠の高さで測れます。
標高759メートルの盆地に水を湛える諏訪湖は、八ヶ岳や霧ヶ峰などの山々に囲まれています。縄文の人々は低湿地の湖畔ではなく周囲の台地を選んで住み、近世には湖畔の道が交通の要となりました。地形そのものは変わらなくても、そこで営まれる暮らしは時代ごとに姿を変えています。
諏訪大社四社の詳しい話や、製糸業から精密工業への技術の歩みは、それぞれ別の記事に譲ります。ここでは盆地と峠という舞台そのものが、縄文から近世までの暮らしと交流をどう形づくってきたかを追います。
縄文時代―台地に刻まれた最初の暮らし
低湿地の湖畔ではなく、日当たりと水はけのよい周辺の台地に、縄文人は長く住み続けました。
尖石石器時代遺跡とがりいしせっきじだいいせき
八ヶ岳西麓の標高約1,070メートルに広がる遺跡で、これまでの調査で200軒を超える竪穴住居址が見つかっています。1952年に国の特別史跡に指定され、隣接する与助尾根・与助尾根南の2遺跡を含めて1993年と2021年に指定地が追加されました。指定面積は合計8万平方メートルを超え、この一帯が一時期だけでなく長期間にわたって選ばれ続けた集落地だったことをうかがわせます。
仮面の女神かめんのめがみ
茅野市湖東の中ッ原遺跡から出土した、高さ34センチメートル・重さ約2.7キログラムの大型土偶です。今から約4000年前、縄文時代後期前半に作られたとみられ、右足が意図的に外された状態で、墓域と考えられる場所に横たえられていました。2000年に出土し2014年に国宝指定を受けたこの土偶は、台地の上に暮らしの跡だけでなく弔いの跡も刻まれていたことを伝えます。
縄文のビーナスじょうもんのびーなす
仮面の女神と並ぶ、茅野市棚畑遺跡出土の国宝土偶です。高さ27センチメートル、重さ2.14キログラムの中実(内部が詰まった)土偶で、粘土に含まれる黒雲母が肌にきらめきを与えています。二体の国宝土偶はともに茅野市内の遺跡から出土し、尖石縄文考古館に並んで展示されており、同じ盆地の縁にいくつもの集落が並行して営まれていたことを教えてくれます。
井戸尻遺跡いどじりいせき
盆地の南、富士見町にある縄文時代の遺跡で、隣接する井戸尻考古館が土器・石器と当時の暮らしを再現した展示を伝えています。茅野市の尖石・中ッ原・棚畑と合わせて見ると、諏訪盆地の集落は一点に集中していたのではなく、盆地を取り巻く台地の複数箇所に分かれて存在し、互いに行き来できる範囲に位置していたことが見えてきます。
出典:井戸尻遺跡・井戸尻考古館
古墳から近世へ―湖畔の要害と交通の要
湖と湿地は防御に使われ、二つの街道は湖畔で交わり、盆地の自治のかたちも時代とともに更新されました。
古墳群(一時坂古墳・フネ古墳)いちじざかこふん・ふねこふん
諏訪市内に残る古墳時代の墓で、フネ古墳からは蛇行剣などの出土品が見つかり、県宝に指定されています。一時坂古墳では死者への祭りとみられる土器の配列が確認されており、縄文の集落が途切れた後も、盆地の縁には有力者を葬る場が設けられ続けたことがわかります。城や宿場に先立つ、盆地のもう一つの古い顔です。
出典:指定文化財・遺跡のご案内
高島城たかしまじょう
日根野織部正高吉が適地を選び、1598年に完成させた城です。完成当時は湖水と湿地に囲まれ諏訪湖に浮かぶように見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれ、築城にあたって湖畔の漁業集落ごと移転したとも伝わります。天守は明治期に取り壊されましたが1970年5月に復興され、続日本100名城にも認定されました。湖という自然の湿地帯が、そのまま防御施設として使われた例です。
出典:諏訪高島城
下諏訪宿しもすわじゅく
中山道と甲州道中が合流する交通の要衝として栄えた宿場です。本陣岩波家住宅や伏見屋邸など当時の面影を伝える建物が今も残り、下諏訪町はこれらを地域の歴史的風致として保存してきました。江戸と信濃・甲斐を結ぶ二つの街道が盆地のこの一点で合わさっていたことは、諏訪が孤立した山あいの土地ではなく、峠を越えて人と物が行き交う結節点だったことを示しています。
よくある質問
諏訪盆地の歴史を知るなら、まずどこを見ればいい?
台地の縄文遺跡と、湖畔の高島城・下諏訪宿を対で見るのがおすすめです。同じ盆地でも、高台の暮らしと湖畔の交通という異なる土地の使われ方が見えてきます。
縄文時代の遺跡はなぜ茅野市に集中しているの?
茅野市は八ヶ岳西麓に広い台地があり、日当たりや水はけに恵まれていたためとされます。ただし富士見町にも井戸尻遺跡があり、集落は茅野市だけに限られていたわけではありません。
高島城が「浮城」と呼ばれるのはなぜ?
完成当時は城の周囲を湖水と湿地が取り囲み、湖に浮かんでいるように見えたためです。今日の市街地の姿からは想像しにくいほど、当時は水に近い立地でした。
下諏訪宿が交通の要衝だったことは今の何に残っている?
本陣岩波家住宅や伏見屋邸といった建物が今も町内に保存され、下諏訪町が歴史的風致維持向上計画のもとで守り続けています。