松本・安曇野の歴史 ― 城主が代わった二百八十年と、水が拓いた盆地

最終更新: 2026-07-15

深志城から松本城へを描いた架空のドット絵風景

深志城が松本城と呼ばれ始めたのは、1582年のことだった。天守を建てた石川父子のあと、この城には六つの大名家が入れ替わり、麓の安曇野では人々が扇状地に堰を引いていった。

松本城は、戦国から江戸、明治にかけて城主が幾度も交代し、廃城の危機さえくぐり抜けた城です。一方、麓に広がる安曇野は、扇状地の乏しい水を堰で引き込み、荒れ地を水田に変えてきた土地でした。

松本の政治史と安曇野の開拓史は、別々の物語のように見えて、実は同じ盆地を舞台にした一続きの歴史です。城主の交代、天守を守った人々、そして盆地を編んだ水と道を、出典とともに順にたどります。

松本城の城主は、何度代わった?

石川父子が天守を築いてから明治維新まで、松本城には六つの大名家が入れ替わり座りました。もっとも短い在城は5年ほど、もっとも長い在城は145年に及びます。

深志城から松本城へふかしじょうからまつもとじょうへ

1582年

戦国期、この地は深志城と呼ばれ、武田氏が32年にわたり支配しました。1582年、武田氏滅亡後の混乱の中で旧領を回復した小笠原貞慶が、城の名を松本と改めています。「松本」への改称は、深志という古名からの大きな転換点でした。

出典:松本城公式サイト「松本城の歴史」

石川数正・康長父子と天守いしかわかずまさ・やすながふし

1590年代

1590年に入城した石川数正・康長父子は、現存する天守の建造に着手しました。父子二代にわたる普請で、大天守・乾小天守・渡櫓という戦国仕様の三棟がこの時期に姿を整えたとされます。石川家は1613年に改易となり、自ら築いた天守の完成を見届けることなく城を去りました。

出典:松本城公式サイト「松本城の歴史」松本城公式サイト「天守とその構造」

六つの家、五年から百四十五年

1613〜1871年

石川家のあと、小笠原・戸田・松平・堀田・水野・戸田と、六つの大名家が松本城主を務めました。もっとも短いのは松平直政の在城で、1633年から1638年までの5年ほど。もっとも長いのは戸田家二度目の在城で、1726年から明治維新の1871年まで145年に及びました。城主の在城年数だけを見ても、この城の時代ごとの安定度がうかがえます。

出典:松本城公式サイト「松本城の歴史」

明治維新は、天守に何をもたらした?

廃藩置県で城主を失った松本城は競売にかけられ取り壊しの危機を迎えますが、地元の人々の手によって買い戻され、今日まで残りました。

筑摩県、五年間の県庁所在地ちくまけん

1871〜1876年

1871年の廃藩置県ののち、中南信4郡と飛驒国を管轄する筑摩県が生まれ、松本城の二の丸御殿がその県庁となりました。筑摩県は1876年に長野県へ統合され、わずか5年で姿を消しています。県名は今も松本市筑摩や東筑摩郡という地名に残ります。

出典:松本城公式サイト「松本城の歴史」コトバンク「筑摩県」

235両で競売にかけられた天守

1872年

廃城令にともない、天守を含む松本城の建物は競売にかけられました。天守は235両で落札されましたが、地元の副戸長・市川量造らが買い戻しを働きかけ、天守内で博覧会を開くなどして資金を集め、取り壊しを免れています。もし競売がそのまま進んでいれば、天守は今日残っていなかったかもしれません。

出典:松本城公式サイト「住民が守った松本城」

小林有也と保存会、明治の大修理こばやしうなり

1901〜1913年

明治後期、天守の傾きが目立つようになると、旧制松本中学校長・小林有也を中心に松本天守閣保存会が1901年に発足しました。小林は同校の前身校で1884年から校長を務めた人物でもあり、寄付を募って進められた「明治の大修理」は1913年に完了し、傾いた天守を建て直しています。この保存運動が、1930年の史跡指定、戦後の国宝指定へとつながりました。

出典:松本城公式サイト「住民が守った松本城」長野県松本深志高等学校「学校の歩み(沿革)」

廃仏毀釈という荒療治

1870年

松本藩では、最後の藩主・戸田光則のもとで1870年に廃仏毀釈が藩から提案され、全国でも有数の激しさで実行されました。戸田家の菩提寺であった全久院や、前山寺などが廃されています。城だけでなく寺社にも及んだ、この時期特有の急激な変化のひとつです。

出典:松本城公式サイト「松本城の歴史」

松本と安曇野は、何でつながっていた?

扇状地に水を引いた堰、塩を運んだ千国街道、犀川を上下した舟運など、水と道が盆地全体を一つに結んでいました。

安曇野を拓いた五本の堰

1654〜1861年

水はけのよい扇状地は本来水田に向きませんが、安曇野の人々は江戸期を通じて矢原堰勘左衛門堰拾ケ堰五ケ用水新堀堰と、5本の堰を相次いで開削しました。なかでも1816年開削の拾ケ堰は、10か村が総出で15キロを引いた大工事です。二百年をかけたこの土木事業が、荒れ地を穀倉地帯に変えました。

出典:安曇野市「安曇野を流れる堰」

塩を運んだ千国街道ちくにかいどう

近世

日本海側の糸魚川と松本を結ぶ千国街道は、安曇野を縦断して塩や海産物を内陸へ運んだ約120キロの道で、最も長い塩の道ともいわれます。牛や歩荷(ぼっか)による中継輸送が支え、「敵に塩を送る」の故事で知られる上杉の義塩もこの道を通ったと伝わります。海のない信州にとって、この道は数少ない海産物の入り口でした。

出典:塩事業センター「塩の道 千国街道(長野県)」

犀川を上下した舟運さいがわ

1832年

1832年には松本と信州新町の間で犀川通船が開通し、川を使った物資輸送の道も開かれました。堰による農地開発、街道による陸運、舟運による水運と、松本・安曇野の盆地は幾重もの交通網によって外とつながっていたのです。

出典:松本城公式サイト「松本城の歴史」

よくある質問

松本城の城主は本当に6家も代わったの?

はい。石川家を皮切りに、小笠原・戸田・松平・堀田・水野・戸田と6家が城主を務めました。同じ戸田家が二度城主になっているため、在城の順番としては7期に分かれます。

筑摩県はなぜ短期間で消えたの?

1871年に周辺の県を統合して生まれた筑摩県でしたが、1876年の全国的な府県再編で長野県に統合されたためです。県庁が松本城内に置かれた期間は5年ほどでした。

松本城の天守は本当に壊されかけたの?

はい。廃城令により1872年に競売にかけられ、235両で落札されています。地元の人々が買い戻しに動かなければ、取り壊されていた可能性があります。

安曇野の堰は今も使われているの?

はい。矢原堰や十ケ堰など江戸期に開かれた堰の多くは、改修を重ねながら現在も安曇野の水田を潤しています。

出典・参考

※ 由来に諸説あるものは「諸説あり」として記載しています。読み・由来は公開情報にもとづきますが、最新の情報は各出典でご確認ください。

執筆: LoreMania編集部/出典検証: 各項目に明記

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