松本・安曇野の食と工芸を読み解く:山賊焼きと民藝運動

松本・安曇野の食と工芸は、どちらも「外から来たものを地域が育てた」という共通の筋を持っている。
松本・安曇野を代表する食と工芸として、鶏料理「山賊焼き」と、柳宗悦の民藝運動から始まった工芸文化がある。どちらも一人の発案や一つの出会いから広がり、地域に根づいたという点で似た成り立ちを持つ。
この記事では城下町の町割りには触れず、山賊焼きの由来と定着の過程、そして民藝運動が松本をどう工芸のまちに変えたかを一次資料で確認する。
松本の名物料理「山賊焼き」
山賊焼きは鶏の一枚肉を揚げた郷土料理で、2011年の応援団結成を経て市内100店以上に広がった。
山賊焼きとはさんぞくやき
山賊焼きは、松本市や塩尻市を中心とする中信地方で親しまれている郷土料理で、鶏の一枚肉をタレに漬け込み、片栗粉をまぶして揚げたものである。名前に「焼」とつくが実際には揚げ物であり、一部の店では「山賊揚げ」とも呼ばれる。これは昔は油が貴重で、少量の油で揚げることを「焼く」と表現した名残とされる。 タレの味付けや衣の厚さは店によって差があり、食べ比べを目的に複数店をめぐる人も多い。
出典:長野県(松本市)山賊焼
由来説と「山賊焼応援団」ゆらいせつと さんぞくやきおうえんだん
名前の由来には複数の説がある。塩尻市の居酒屋「山賊」の前身「松本食堂」の店主の祖父夫婦が第二次世界大戦前後に考案し、祖父の風貌が山賊に似ていたことから名付けられたという説や、鶏を「とりあげる」ことから「山賊」の名がついたという言葉遊び説などが伝わる。40〜50年前から市民の食卓や飲食店に根づいていたが、2011年に「松本山賊焼応援団」が結成されたことで認知が広がり、現在では市内100店以上で味わえる松本きっての名物になった。
柳宗悦の民藝運動と松本
1926年に柳宗悦らが提唱した民藝運動が、丸山太郎を通じて松本に持ち込まれた。
民藝運動とはみんげいうんどう
民藝運動は1926年(大正15年)、柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司らによって提唱された生活文化運動である。無名の職人の手から生まれた日常の生活道具を「民藝」と名付け、美は特別な芸術品だけでなく生活の中にもあるという考え方を掲げた。
出典:民藝運動
丸山太郎と松本民芸館まるやまたろうとまつもとみんげいかん
松本の老舗問屋に生まれた丸山太郎は、1936年に柳宗悦による日本民藝館創立の新聞記事を見て上京し、実際の民芸品に触れて感銘を受けた。1946年には日本民藝協会の長野県支部を立ち上げ、1962年には6800点を所蔵する松本民芸館を創立した。柳宗悦の民藝運動に感銘を受けた一人の行動が、松本における工芸文化の起点になったことがわかる。
出典:工芸のまち松本の原点
民藝運動が結んだ交流と工芸のまち
柳宗悦が夏に松本へ滞在するようになり、民藝運動の巨匠たちとの交流が松本の工芸文化を育てた。
民藝運動の巨匠たちとの交流みんげいうんどうのきょしょうたちとのこうりゅう
丸山太郎が長野県支部を立ち上げた後、柳宗悦は夏になると松本に滞在するようになった。これにより濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、棟方志功といった民藝運動の巨匠たちが松本を訪れ、地元の職人や丸山太郎と交流する機会が生まれた。中央の運動が一地方都市に直接根を張った珍しい例といえる。
出典:工芸のまち松本の原点
民芸の町から工芸の町へみんげいのまちからこうげいのまちへ
松本ではその後、家具・木工・漆器などの工芸品を作る職人や工房が増え、「民芸の町」という呼び方から、より広い意味を持つ「工芸の町」という呼び方への広がりが見られるようになった。一人の感銘から始まった運動が、世代を超えて職人が集まる地域産業へと育っていった過程がうかがえる。 現在の松本には家具工房から陶芸・木工の小さな工房まで幅広い工芸が根づいており、一つの運動が長い時間をかけて多様な担い手を育てたことが見て取れる。
出典:民芸の町から工芸の町へ
よくある質問
山賊焼きは焼き物?揚げ物?
名前と調理法が一致しない、松本らしい食べ物の一つである。実際に鍋の中にあるのは油であって炭火ではない。少ない油で済ませる工夫を指した昔の言い回しがそのまま名前に残った結果、今の調理法とはズレた呼び方になっている。
民藝運動はいつ、誰が始めた?
大正の終わりごろ、複数の思想家・陶芸家が共同で立ち上げた運動である。特定の一人の発案というより、同じ問題意識を持つ人々が集まって形にしたという点が、その後各地に広がった理由の一つとされる。
松本民芸館はいつできた?
一人の問屋の息子が上京先で受けた感銘が、数十年後に地元で形を結んだ施設である。開館は運動が世に出てから三十年以上を経てのことで、地方へ広まるにはそれだけの時間がかかったことがうかがえる。