松本城下町を読み解く:堀・水路・町割り

松本城下町は、天守だけでは説明できない。堀・水路・町割りまで含めて初めて全体像が見える。
松本城といえば国宝の天守が真っ先に思い浮かぶが、城はもともと城下町全体を守るための三重の堀構造の中心にすぎない。堀の外に広がる町割りと、町を潤した湧水網まで見ないと、松本城下町の実像はつかめない。
この記事では天守の建築詳細には触れず、堀の防御設計・町割りの構造・湧水群という3つの角度から、城と町がどう一体だったのかを一次資料で確認する。
松本城を守る三重の水堀
松本城は内堀・外堀・総堀の三重構造で、内側から本丸・二の丸・三の丸を守っていた。
内堀・外堀・総堀うちぼり・そとぼり・そうぼり
松本城は三重の水堀に囲まれ、内側から内堀・外堀・総堀と呼ばれる。内堀に囲まれた中が本丸、外堀に囲まれた中が二の丸、外堀と総堀の間が三の丸である。三の丸には家老をはじめとする上中級の藩士の屋敷が置かれ、総堀の土塁は底部の幅が17メートル、高さ3.5メートルにおよび、その上にさらに塀が築かれていたという記録が残る。 三の丸の外周にはさらに侍屋敷が連なり、有事には三重の堀と土塁・塀が段階的に敵の侵入を遅らせる構造になっていたと考えられている。
出典:松本城の歴史
内堀までの防御距離うちぼりまでのきょり
本丸を囲む内堀までの距離は約60メートルとされ、これは当時の火縄銃の有効射程を意識した距離だったと説明されている。堀の幅そのものが防御装置として機能していたことがわかる一例である。三重の堀は単なる境界線ではなく、それぞれの幅や配置に軍事的な意図が込められていた。
出典:天守とその構造
三の丸から広がる城下町の町割り
城下町は職業ごとに町割りされ、親町三町と枝町十町、さらに善光寺街道沿いの町人地が続いた。
親町三町と枝町十町おやまちさんちょう・えだまちじゅっちょう
総堀の外に広がる城下町は、親町三町(本町・中町・東町)と枝町十町(博労町・伊勢町・小池町・安原町など)と呼ばれる町々で構成された。町ごとに商いの中心となる職業が異なり、本町には問屋、中町には呉服商や酒屋、東町には旅籠が多かったと伝わる。同じ城下町の中でも、通りごとに職業と町の個性が分かれていたことがわかる。
善光寺街道沿いの町人地ぜんこうじかいどうぞいのちょうにんち
総堀の外にはさらに城下町が広がり、善光寺街道が南から北に通っていた。街道沿いには町人たちの家が立ち並び、その外側にはさらに寺社地が配置された。街道・町人地・寺社地という同心円状の配置は、防御と経済(街道交通)と信仰の3つの機能を同時に満たすための町割りだったと考えられる。
城下町を今も潤す湧水
松本城下町周辺は湧水が豊富で、2008年に「まつもと城下町湧水群」として国の名水百選に選ばれた。
まつもと城下町湧水群まつもとじょうかまちゆうすいぐん
松本城下町の周辺では周囲の山々から集まる地下水が豊富で、井戸や湧水が数多く見られる。2008年6月、環境省の「平成の名水百選」にこの一帯が「まつもと城下町湧水群」として選定された。清涼な湧水は市民の水汲み場として今も使われ、街路樹への灌水や打ち水にも利用されている。災害で断水が起きても手動ポンプで生活用水を確保できる点も評価されている。 湧水群という呼び名は一か所の泉を指すのではなく、城下町一帯に点在する複数の井戸・湧水地点を総称したものである点も、この名水百選の特徴といえる。
よくある質問
松本城の堀はいくつある?
数だけ見れば三つだが、単純な三重の輪ではない。内側の輪が一番大切な区画を守り、次の輪がその外を守り、さらに外側との間に挟まれた部分が最後の守りになるという、入れ子のような構造になっている。
城下町の町はどう分かれていた?
親町三町(本町・中町・東町)と枝町十町に分かれ、町ごとに問屋・呉服商・旅籠など中心となる商いが異なっていた。
源智の井戸の名前の由来は?
小笠原貞慶に仕えた家臣・河辺縫殿助源智の名が、そのまま呼び名として今に定着した珍しい例である。城そのものよりも古くから人々が水を汲みに来ていたとされる。