萩の城下町はどう生まれ、何を育てたか ― 松下村塾・反射炉・萩焼までの道すじ

江戸時代の地図を片手に歩ける町が、日本海に面した三角州の上にある。関ヶ原で敗れた大名が三角州に開いた城下町が、そのまま残っているからだ。
1600年の関ヶ原の戦いで西軍の総帥とみなされた毛利輝元は、安芸・石見・出雲など中国地方に広がる約120万石の領地を、周防・長門の二か国、すなわち防長の36万9千石へと削られた。広島に代わる新しい居城の地として選ばれたのが、日本海沿いの三角州である。1604年、輝元は築城中の萩城(指月城)に入った。
1863年に藩庁が山口へ移るまでの約260年、萩は毛利藩の政治の中心だった。その間に藩校が家臣を育て、私塾からは維新の担い手が出て、幕末には洋式の大砲や軍艦づくりに挑み、御用窯は焼き物の名を今に残した。
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産は市内に五つあり、そのうち萩城下町は城跡、旧上級武家地、旧町人地の三地区でできている。城下町の暮らしは、藩主の墓所や街道、焼き物といった周りの営みとも地続きだった。
三角州に描いた城下町 ― 萩城と武家地・町人地
1604年に毛利輝元が開いた萩は、城・武家地・町人地が区画ごとに分かれた城下町で、直角に折れる鍵曲のような街路が今も残ります。
萩城(指月城)はぎじょう
萩城は1604年(慶長9)、指月山の麓で築城が始まった。別名を指月城といい、山麓の平城と山頂の詰丸を合わせた平山城で、本丸・二の丸・三の丸・詰丸からなった。五層の天守は高さ8間(約14.4m)。建物は1874年(明治7)にすべて解体され、いま残るのは石垣と堀の一部で、国指定の史跡になっている。標高145mの山頂にあった詰丸は籠城の最後の砦で、平時は陸と海を見張る矢倉として使われた。
毛利輝元もうりてるもと
輝元は1589年(天正17)に太田川河口のデルタで築城を始め、この地を「広島」と名づけた人物でもある。関ヶ原ののち1600年10月に薙髪して隠居し、家督は6歳の秀就に譲った。1604年11月、築城中の萩城へ移って以降、毛利氏の本拠は防長の萩になる。広島も萩も、三角州に城下町を開いた点では共通している。
鍵曲かいまがり
鍵曲は、左右を高い土塀で囲んだ道を直角に折り曲げた街路で、見通しがきかず、行き止まりかと思わせる。堀内は藩政時代の城内三の丸にあたり、藩の諸役所や毛利一門・永代家老・寄組の屋敷が並んでいた。追廻し筋の鍵曲は、平安古地区・大児玉横町の鍵曲とともに、城下町ならではの街路の姿を今に伝える。
出典:堀内 鍵曲
菊屋家住宅きくやけじゅうたく
菊屋家は大内氏の時代には武士で、輝元が萩城を築くとき有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くした豪商とされる。萩藩の御用商人を務め、幕府巡見使の宿である本陣にもあてられた。主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場の5棟が国の重要文化財で、江戸初期の建築として現存する大型の町家では最古の部類に入る。敷地は約2000坪あり、その約3分の1が通常公開されている。
出典:菊屋家住宅
江戸屋・伊勢屋・菊屋の横町
御成道に面して屋敷を構えていた藩の豪商、江戸屋・伊勢屋・菊屋の屋号が、そのまま横町の名になった。旧萩城の外堀の外側に広がる城下町は、町筋が碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が並んでいた。江戸屋横町には木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅、円政寺があり、黒板塀が続く。円政寺は金毘羅社を祀る真言宗の寺で、文化12年(1815)に母の病気平癒を願って百度参りを重ね、風雪に阻まれて亡くなった兄弟の「香川津二孝子」の美談が伝わる。
江戸時代の地図がそのまま使えるまち
毛利藩政期に形づくられた城下町のたたずまいが都市遺産として今も残り、日本で唯一「江戸時代の地図がそのまま使えるまち」といわれる。まち全体を屋根のない博物館に見立てた「萩まちじゅう博物館構想」も進められている。世界遺産の「萩城下町」は、萩城跡(中堀の内側)、旧上級武家地(堀内伝建地区と外堀)、旧町人地の三地区から成り、城跡は政治・行政の中心を、旧町人地は商業や小規模工業に支えられた経済の姿を示す。
学びの系譜 ― 明倫館から松下村塾へ
藩校明倫館の創設は1719年。松下村塾の名を最初に付けたのは松陰の叔父・玉木文之進で、松陰が杉家の小屋で塾を開いたのは1857年です。
明倫館めいりんかん
明倫館は1719年(享保4)、5代藩主・毛利吉元が萩城三の丸の南側に創建した。全国に300近くあった藩校のうち12番目にできたとされる。教育内容や儀式は湯島の聖堂を手本にし、名は2代学頭の山県周南が『孟子』の一節(人倫を明らかにする)から付けた。1849年(嘉永2)に三の丸から江向へ移り、移転後の校地に建つ旧明倫小学校の校舎は、いま「萩・明倫学舎」として活用されている。
村田清風むらたせいふう
清風は1783年(天明3)、大津郡三隅村(現・長門市三隅)に村田光賢の長男として生まれた。15歳で明倫館に入り、藩主の小姓役となって以来、13代・敬親まで5代の藩主に仕えている。天保の改革で重んじた殖産は「米・蝋・塩・紙」。1845年、63歳で三隅に隠居してからは人材の育成に力を注ぎ、吉田松陰をはじめ多くの人が山荘を訪ねて教えを乞うた。
吉田松陰よしだしょういん
松陰は1830年(文政13)、家禄26石の萩藩士・杉百合之助の次男に生まれた。誕生地は萩の町を一望できる団子岩の高台にあたる。数え6歳で兵学師範の吉田家の養子となり、叔父の玉木文之進に厳しく教えられて、数え10歳で明倫館に出仕した。遊学の総距離は約1万3000キロに及ぶという。1854年、弟子の金子重輔と伊豆下田沖のペリー艦隊に乗り込んで渡航を求めたが拒まれ、萩の野山獄につながれる。獄中で囚人たちに『孟子』を講じ、出獄後に杉家へ幽閉されてからも家族相手の講義を続けると、近所の子弟が集まり始めた。1859年、安政の大獄で江戸に送られ、数え30歳で刑死した。
松下村塾しょうかそんじゅく
「松下村塾」の名を最初に付けて私塾を開いたのは、松陰ではなく叔父の玉木文之進で、1842年(天保13)のこと。塾の名はのち松陰の外叔・久保五郎左衛門の塾に引き継がれ、そのあとに松陰が主宰した。杉家の敷地の小屋を修理して八畳一間の塾を開いたのは1857年(安政4)11月で、のちに松陰が増築している。松陰の刑死後は久坂玄瑞らの勉強会、馬島甫仙、玉木文之進と主宰者が代わり、最後は松陰の実兄・杉民治が受け継いで、1892年(明治25)に約50年の歴史を閉じた。現存する塾舎は八畳と十畳半の二室からなる平屋で、国の史跡になっている。
松陰・周布政之助・清風・民治の没年
吉田松陰は1859年の安政の大獄で刑死し、数え30歳。周布政之助は禁門の変や下関の敗北ののち、藩内で佐幕派が盛り返したことに責任を感じて1864年に自刃し、42歳だった。天保の改革を率いた村田清風は1855年に73歳で没し、松陰の実兄の杉民治は1910年に83歳で世を去っている。年齢はいずれも数え年の表記で、満年齢ならおよそ1歳下がる。
出典:吉田松陰(明治維新人物調べ方案内 No.3)周布政之助(明治維新人物調べ方案内 No.22)村田清風(明治維新人物調べ方案内 No.10)杉民治(明治維新人物調べ方案内 No.26)
塾から広がった人々 ― 伊藤博文・高杉晋作・木戸孝允・前原一誠
松下村塾や明倫館に学んだ人々は、初代首相の伊藤博文、奇兵隊をつくった高杉晋作、薩長同盟の木戸孝允など、幕末から明治の各方面に散っていきました。
伊藤博文いとうひろぶみ
伊藤博文は萩の生まれではなく、1841年(天保12)、熊毛郡束荷村(現在の光市)の農家に生まれた。父が萩藩の中間・伊藤直右衛門の養子になった縁で一家は萩に移り、その旧宅は木造茅葺き平屋建て約29坪の小さな家で、国の史跡になっている。1857年に松下村塾へ入り、松陰から「なかなか周旋家になりそうな」と評された。1863年には「長州ファイブ」の一人として英国へ密航留学し、1885年(明治18)に初代内閣総理大臣となって、生涯で計4回組閣している。
高杉晋作と奇兵隊たかすぎしんさく
高杉晋作は藩校明倫館に通うかたわら松下村塾に学び、頭角を現した。1862年に上海を視察して危機感を抱き、翌1863年(文久3)、身分を問わず隊士を集める軍事組織「奇兵隊」を結成する。これは「身分を問わない我が国初の軍事組織」といわれる。1866年の第二次長州征討(四境戦争)では海軍総督として采配を振るい、幕府軍と戦う藩を支えたが、結核が悪化して下関で療養し、1867年(慶応3)に27歳8か月で亡くなった。
木戸孝允きどたかよし
木戸孝允は1833年(天保4)、萩藩医・和田昌景の長男に生まれ、のち藩士・桂家の養子となった。桂小五郎の名で知られ、藩命で姓を木戸に改めたのは1865年。藩校明倫館に通って松陰の兵学門下となり、1866年(慶応2)には坂本龍馬の仲介のもとで、薩摩の西郷隆盛・大久保利通らと薩長同盟を結んだ。維新後は五箇条の御誓文の起草や版籍奉還、廃藩置県に功があり、1877年(明治10)、西南戦争の途中で病没した。数え45歳だった。
出典:木戸孝允旧宅
鉄をつくり、大砲を鋳て、船を造る ― 幕末萩藩と世界遺産
萩市内の世界遺産は、大板山たたら製鉄遺跡、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、松下村塾、萩城下町の五つで、洋式軍備を整えようとした幕末の萩藩の試みを物語ります。
大板山たたら製鉄遺跡
宝暦期、文化・文政期、幕末期の3回操業した、県内最大級のたたらの遺跡。製鉄炉を収めた「高殿」などの生産遺構が残り、2012年(平成24)に国史跡となった。世界遺産の構成資産に入っているのは、恵美須ヶ鼻造船所で最初に造った洋式帆船「丙辰丸」の船釘などに、ここで作られた鉄が使われたことが古文書で確かめられるためである。原料の砂鉄は島根県浜田市の井野村から北前船で阿武町の奈古港へ運ばれ、そこから馬で山中へ入った。製品の鉄は、同じ道を馬で奈古港へ運び、そこから船で恵美須ヶ鼻へ送られたと考えられている。立地の理由は、炭の原料になる山林が周囲に広がっていることにある。
萩反射炉はぎはんしゃろ
反射炉は、燃焼室の炎と熱をドーム形の天井で反射させて鉄に集中させ、炭素量を減らして大砲に使える粘りのある鉄にする装置。萩藩は先に操業に成功していた佐賀藩へ藩士を送って鋳造法の伝授を頼んだが、いったんは断られ、のちに反射炉をスケッチすることは許されたという。1856年(安政3)に築かれた煙突部分が今も残り、1924年(大正13)に国史跡となった。蘭書の設計図どおりに造られ唯一現存する反射炉は静岡県伊豆の国市の韮山反射炉で、萩反射炉は試行錯誤の跡を示す試作炉として評価される。地元の石工による安山岩の石積みに煉瓦を築き、小畑焼の登り窯の技術を応用したと推測されている。
恵美須ヶ鼻造船所跡えびすがはなぞうせんじょあと
江戸初期から続いた大船建造禁止令は、ペリー来航の1853年に幕府が解禁し、翌年に萩藩は軍艦の建造を命じられた。1856年に恵美須ヶ鼻に造船所が築かれ、同年に全長25mの「丙辰丸」、1860年に全長44mの「庚申丸」が進水する。丙辰丸にはロシア人が伊豆・戸田で指導した技術、庚申丸には長崎海軍伝習所でオランダ人教官が教えた技術が使われ、異なる二つの技術を一つの造船所で用いた例はほかにないと評価される。幕末の帆船造船所で唯一遺構が確認できることもあって、2013年(平成25)に国史跡に指定された。庚申丸は1863年に下関海峡で米国の商船を砲撃し、翌月、米軍艦の報復攻撃で沈められている。
明治日本の産業革命遺産
「明治日本の産業革命遺産」は八県十一市に二十三の資産があり、2015年(平成27)7月のユネスコ世界遺産委員会で登録された。萩の構成資産は、大板山たたら製鉄遺跡、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、松下村塾、萩城下町の五つ。萩城跡は独立した資産ではなく、萩城下町の三地区の一つとして含まれている。一方、藩校の明倫館や東光寺、毛利家墓所は構成資産に入っていない。
萩焼 ― 御用窯が育てた、使うほど変わる器
萩焼の歴史は1592年の朝鮮出兵にさかのぼり、毛利輝元が招いた陶工の李勺光と弟の李敬が松本村に御用窯を開いたのが始まりです。使うほど色合いが変わる器として知られます。
萩焼はぎやき
起源は1592年(文禄元)、豊臣秀吉の朝鮮出兵にさかのぼる。毛利輝元が李勺光を招き、のちに弟の李敬も招いた。関ヶ原の後に広島から萩へ移った輝元に李兄弟も従い、松本村に藩の御用窯を開いたのが始まりとされる。秀吉の出兵は各地に陶工の渡来をもたらし、有田焼など西日本の陶磁器が始まったことから「やきもの戦争」とも呼ばれる。「一楽二萩三唐津」と称され、日本屈指の焼き物として知られる。
萩の七化けはぎのななばけ
萩焼はざっくりと焼き締まりの少ない粗い陶土を使うため、浸透性・保水性・保温性が高い。表面には土と釉薬の収縮率の違いから細かなひび(貫入)が生じ、そこから水分がしみ込んで、使い込むほどに色合いが変わり、侘びた味わいを増していく。この変化を「萩の七化け」と呼ぶ。
出典:萩焼について
大道土・見島土・金峯土
主要な原土は「大道土」で、防府市大道から山口市鋳銭司四辻の一帯で採れる砂礫の多い白色粘土。萩焼の基本的な土味はこの土による。萩の沖の離島・見島で採れる鉄分の多い赤黒色の「見島土」は、胎土に混ぜて風合いや色彩を多様にする。福栄の金峯で採れる砂質の白色土「金峯土」は、胎土の粘性を抑えて耐火度を上げる役割をもつ。色は大道土を生かした肌色から枇杷色、見島土の褐色や灰青色、藁灰釉の白など比較的限られ、絵付けなどの装飾はほとんど行われない。
出典:萩焼について
切り高台(割り高台)
高台の一部を切り取る切り高台は、萩焼に限った手法ではなく、萩焼の茶碗が必ず切ってあるわけでもない。茶陶として発展した萩焼が高台の造形を追求したために、特徴とされるようになった。「庶民が使うことを許すため、わざと切り込みを入れた」という御用窯らしい言い伝えが、萩ならではの印象を強めたのかもしれない。
出典:萩焼について
三輪休雪と鬼萩
萩市出身の三輪壽雪は1910年生まれ。兄の十代休雪(のち休和)の茶道具づくりを手伝い、1967年に十一代三輪休雪を襲名して、1983年に重要無形文化財「萩焼」の保持者(人間国宝)に認定された。作陶歴は約80年に及ぶ。代表的な作風「鬼萩」は、胎土に粗い砂を加えた荒々しい土味が特徴で、白い釉薬「休雪白」と組み合わせる。
毛利家の菩提寺と、城下から延びる道 ― 東光寺・大照院・萩往還
東光寺には3代から11代までの奇数代、大照院には初代と偶数代の藩主が眠り、お盆の万灯会で石灯籠に灯がともります。城下の中心にあった唐樋札場跡が萩往還の起点です。
東光寺とうこうじ
東光寺は1691年(元禄4)に3代藩主・毛利吉就が創建した黄檗宗の寺で、開山は萩出身の名僧・慧極。全国屈指の黄檗宗寺院とされ、大照院と並ぶ毛利家の菩提寺である。本堂裏の墓所には、3代吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人・一族が葬られ、藩士が寄進した500余基の石灯籠が墓前に並ぶ。総門・三門・鐘楼・大雄宝殿は国の重要文化財、墓所は国の史跡に指定されている。
出典:東光寺
大照院だいしょういん
大照院は臨済宗南禅寺派の寺で、荒廃していた寺を2代藩主・綱広が、亡き父の初代藩主・秀就の菩提所とするため、1654年(承応3)から1656年(明暦2)にかけて再建した。1747年の火災で焼失したのち、6代藩主・宗広が1750年に再建している。隣接する墓所には初代秀就と、2代から12代までの偶数代の藩主とその夫人・一族が葬られ、墓前には600数基の石灯籠が並ぶ。本堂・庫裏・書院・鐘楼門・経蔵は国の重要文化財で、5月上旬には藤の花が咲く。
出典:大照院
萩・万灯会はぎまんとうえ
迎え火と送り火を別々の寺で営む、毛利家の菩提寺ならではのお盆の行事。迎え火は毎年8月13日に大照院、送り火は8月15日に東光寺で行われる。墓所に並ぶ石灯籠にろうそくの灯がともり、大照院では約600基、東光寺では約500基が夜の闇に浮かぶ。
萩往還はぎおうかん
毛利氏の参勤交代の御成道として開かれた、萩から防府・三田尻までをほぼ直線で結ぶ全長約53kmの街道。最短距離をとるため中国山地を南北に貫き、峠や急坂が多い。起点は萩三角州のほぼ中央にあった唐樋札場跡で、防長両国の諸街道の起点であり、一里塚の基準点でもあった。板堂峠の国境の碑には「南周防吉敷郡」「北長門国阿武郡」と刻まれ、長門と周防の境を示している。城下を振り返る最後の場所には「涙松」の名が残る。国の史跡で、「歴史の道百選」にも選ばれている。
城下の寺と祭りに残る毛利藩の名残 ― 常念寺・海潮寺・お船謡
常念寺の表門は聚楽第の裏門と伝わる国の重要文化財、海潮寺の本堂は明倫館の聖廟を移したもの、住吉神社のお船謡は毛利藩の御座船唄で県の無形民俗文化財です。
常念寺表門じょうねんじおもてもん
下五間町の常念寺の境内にある四脚門で、桁行3.66m・梁間3.12m、切妻造りの本瓦葺き。移建のころのものとみられる1633年(寛永10)の棟札が残る。寺伝では、もと京都の聚楽第にあった裏門を毛利輝元が豊臣秀吉からもらい受け、伏見の自邸、萩城内と移したのち、常念寺へ移したという。ただし聚楽第の裏門だったことは、正式な文書では確かめられていない。小規模ながら木割が太く勇健な造りで、江戸初期の建物が少ない山口県では貴重な遺構とされる。
海潮寺かいちょうじ
北古萩町にある曹洞宗の寺で、もとは1408年(応永15)に石見の温泉津で開かれた。毛利輝元の防長移封にともなって1607年(慶長12)に萩へ移り、山号と寺号を改めている。1874年(明治7)の火災で山門と土蔵を残して全焼したのち、藩校・明倫館にあった聖廟を移して本堂とし、明治16年までに旧観に復した。この聖廟は萩市の指定有形文化財である。
住吉神社のお船謡すみよしじんじゃのおふなうた
7月下旬の夏大祭の「御祭事始め」と、8月3日の神幸祭に演じられる謡。もとは毛利藩の御座船唄で、藩主の乗船や新造船の進水を祝って歌われた。1659年(万治2)に住吉神社が勧請されると、藩庁が藩主の御座船を模した山車「お船」を寄進し、その船上で謡うのが慣わしになる。藩政時代は藩の世襲の役職「お船謡舸子組」の家の者にしか演唱が許されず、明治以降は浜崎の魚問屋が主催する祭礼になった。1976年(昭和51)に山口県の無形民俗文化財に指定されている。
よくある質問
松下村塾を最初に開いたのは吉田松陰ですか?
いいえ。「松下村塾」の名で私塾を最初に開いたのは、松陰の叔父にあたる玉木文之進で、1842年のことです。その場所は今も玉木文之進旧宅として史跡に残り、少年期の松陰も通いました。塾の名は外叔の久保五郎左衛門の塾を経て松陰の代に引き継がれ、杉家の小屋で塾が始まるのは1857年になってからです。
萩の城下町が「江戸時代の地図で歩ける」と言われるのはなぜ?
毛利藩政期に形づくられた町割りと街路が、いまも都市遺産として残っているからです。堀内に残る鍵曲は、道を直角に曲げて見通しをきかなくした城下町ならではの街路です。菊屋・江戸屋・伊勢屋といった豪商の屋号がついた横町も旧町人地に並び、江戸時代の区画をそのまま歩いて確かめられます。市はこの町を、日本で唯一「江戸時代の地図がそのまま使えるまち」と紹介しています。
萩焼の「七化け」とは何ですか?
使い込むうちに器の色合いが変わっていくことを指す呼び名です。萩焼は粗い土で水を吸いやすく、土と釉薬の収縮率の違いで生じた細かなひび(貫入)から水分がしみ込みます。その染みが少しずつ広がり、新品の頃にはなかった侘びた景色が育ちます。
萩の世界遺産の構成資産はいくつ、どこですか?
市内には五か所あります。鉄をつくる大板山たたら製鉄遺跡、大砲を鋳ようとした萩反射炉、船を造った恵美須ヶ鼻造船所跡に、人を育てた松下村塾と、それらを生んだ萩城下町を加えた顔ぶれです。お城だけの登録と誤解されがちですが、萩城跡は城下町の三地区の一つとして含まれています。
出典・参考
- 萩城跡・指月公園
- 天守跡
- 萩エリア~萩市の資産 萩城下町
- 天樹院墓所
- 堀内 鍵曲
- 菊屋家住宅
- 江戸屋横町
- 金毘羅社 円政寺
- 萩市の概要(地勢・産業)
- 古明倫館跡
- 萩・明倫学舎
- 村田清風別宅跡
- 古地図を片手にまちを歩こう<三隅編>
- 村田清風(明治維新人物調べ方案内 No.10)
- 松下村塾(世界遺産)|御由緒・松下村塾
- 吉田松陰誕生地
- 吉田松陰(明治維新人物調べ方案内 No.3)
- 松下村塾
- 松下村塾(国指定文化財等データベース)
- 周布政之助(明治維新人物調べ方案内 No.22)
- 杉民治(明治維新人物調べ方案内 No.26)
- 伊藤博文旧宅
- 高杉晋作誕生地
- 高杉晋作(明治維新人物調べ方案内 No.14)
- 木戸孝允旧宅
- 前原一誠旧宅
- 萩エリア~萩市の資産 大板山たたら製鉄遺跡
- 萩エリア~萩市の資産 萩反射炉
- 萩エリア~萩市の資産 恵美須ヶ鼻造船所跡
- 「明治日本の産業革命遺産」世界遺産に登録
- 萩焼について
- 三輪壽雪展(国立工芸館)
- 萩焼-十一代三輪休雪の鬼萩-
- 東光寺
- 大照院
- 萩・万灯会(迎え火)
- 萩・万灯会(送り火)
- 萩往還
- 萩往還(山口県の文化財)
- 常念寺表門(山口県の文化財)
- 明倫館遺構聖廟(海潮寺)|観光スポット
- 総源山 海潮寺(萩市仏教会)
- 住吉神社「お船謡」(山口県の文化財)