北浦の海岸線をゆく ― 青海島の鯨墓から笠山・見島まで

海へ向かって鳥居が並び、島の墓には鯨の胎児が葬られている。山口県の日本海側、北浦と呼ばれる海岸線は、火山と捕鯨と離島の暮らしで読むと輪郭がはっきりする。
長門の青海島は、日本海の荒波に削られた断崖と洞門が約16kmにわたって続き、「海上アルプス」の別称で呼ばれる。その島の通という集落では、江戸時代に網取り式の古式捕鯨が行われ、捕った鯨に戒名をつけて弔う文化が育った。
海岸線を東へたどると、萩の笠山や須佐の海岸に、阿武火山群がつくった地形が現れる。溶岩台地は農地になり、海の中に広がった溶岩流は好漁場になった。さらに沖には、平らな島々と、国境警備の武人の墓といわれる古墳群が残る見島が浮かぶ。
半島の突端、向津具には、本州最西北端の岬と、唐の楊貴妃が流れ着いたと伝わる寺がある。同じ長門市には、日本海を見下ろす棚田も残る。
青海島と通の捕鯨 ― 鯨を弔った海辺の集落
青海島は国の名勝・天然記念物で、通の鯨墓には捕獲した鯨の胎児が葬られています。鯨に戒名をつけ、手拍子なしの唄で悼む文化が育ちました。
青海島おおみじま
東・西・北の三面を日本海の荒波に削られ、断崖絶壁や洞門、石柱、岩礁が約16kmにわたって続く。島は約9000万年前の火山活動でできた凝灰岩類が主な地質で、東部や北部の海岸には高さ100mを超える海食崖や洞窟、岩柱が並ぶ。1926年(大正15)に国の名勝・天然記念物に指定された。面積は約15平方キロメートルで、長門市を代表する島である。離島でありながら車で渡ることができる。皇居宮殿・波の間の大壁画『朝明けの潮』(1968年、東山魁夷)に描かれた岩は、青海島の岩がモデルという。
網取り式捕鯨
北浦の海は、冬に子育てのため暖かい海へ南下する「下り鯨」の通り道にあたる。通では、網に追い込んで銛で突く網取り式の古式捕鯨が行われた。1672年(寛文12)には仙崎浦の「鯨突き組」が長州藩に取り立てられた記録が残り、長門では約200年間に2800余頭が捕獲されたという。北浦の捕鯨は近代捕鯨の始まりとともに衰え、1910年の捕鯨が最後になったとされる。沿岸に座礁した「寄り鯨」は、天の贈り物として浦の人々で分けたと伝わる。捕鯨をやめたあともクジラ食は庶民に根付き、皮まで使う郷土料理「くじらの南蛮煮」にその名残がある。
青海島鯨墓おおみじまくじらばか
通にある鯨墓は、捕獲した鯨のうち「胎児」を葬った墓で、明治時代までの200年以上にわたり、70数体が埋葬されている。1692年(元禄5)に鯨組の網頭の手で建立された。花崗岩製で高さ2.4m、幅46cm、正面には鯨を供養する言葉が刻まれる。それより13年前の1679年(延宝7)には、通の向岸寺の五世賛誉上人が隠居所の清月庵に観音堂を建て、捕獲した鯨の回向を始めていた。1935年(昭和10)12月24日に国の史跡に指定されている。
出典:青海島鯨墓
仙崎と三隅 ― みすゞと画家と改革者が育った町
仙崎は金子みすゞ、三隅は洋画家の香月泰男と藩政家の村田清風の出身地です。みすゞの詩には、通のくじら文化が影響したといわれます。
金子みすゞかねこみすゞ
金子みすゞは1903年、大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)に生まれた。父の庄之助は青海島の通の生まれで、幼いころのみすゞは父の実家に遊びに来ていた。通のくじら文化が詩のやさしさや悲しみに大きく影響したといわれ、鯨が通に来なくなったころを詠んだ詩『鯨捕り』も残る。1923年に下関の書店の支店で店番をしながら童謡を書き始め、雑誌に投稿すると、西條八十に「若い童謡詩人中の巨星」と称賛された。
みすゞの遺稿512編
長く埋もれていたみすゞの作品を世に出したのは、児童文学者の矢崎節夫である。大学1年生だった1966年に岩波文庫『日本童謡集』で「大漁」に出会い、人間中心のまなざしがひっくり返るような衝撃を受けて、みすゞ探しを始めた。手がかりは、山口県下関から童謡を投稿していたことと、若くして亡くなったことくらいだった。出会いから16年目の1982年ごろまでに、東京にいた実弟の上山雅輔に行き着き、自筆の童謡集3冊に書き写された512編が見つかる。遺稿は1984年に『金子みすゞ全集』として出版された。
香月泰男かづきやすお
洋画家の香月泰男は1911年(明治44)、大津郡三隅村(現・長門市三隅)に生まれ、生涯ほとんど故郷を離れずに創作を続けた。「ここが〈私の〉地球だ」と語って故郷を愛したという。1943年に応召して旧満州に配属され、終戦後はシベリヤに抑留された。その体験にもとづく《シベリヤ・シリーズ》は57点の油彩からなる。遺族から作品の寄贈を受けて、1993年(平成5)、生家の前を流れる三隅川沿いの丘陵に香月泰男美術館が開館し、廃材から生まれた「おもちゃ」と呼ばれるオブジェも収蔵している。
長門の突端 ― 元乃隅神社・川尻岬・二尊院・東後畑の棚田
元乃隅神社は1955年に網元の枕元へ現れた白狐のお告げで建てられ、123基の鳥居が海へ並びます。川尻岬は本州の最西北端で、同じ向津具半島には楊貴妃の伝説を伝える二尊院もあります。
元乃隅神社もとのすみじんじゃ
1955年(昭和30)、地域の網元だった人の枕元に現れた白狐のお告げにより建立された。商売繁盛や大漁、海上安全のほか、良縁、子宝、開運厄除などのご利益があるという。1987年(昭和62)から10年かけて奉納された123基の鳥居が、龍宮の潮吹側から100m以上にわたって並ぶ。津和野町の太皷谷稲成神社とは関係のないお社である。
出典:元乃隅神社
川尻岬
長門市の北端にあたる岬で、油谷向津具下にあり、北緯34度26分に位置する。「本州最西北端」の岬として知られ、緑青色の海が訪れる人を魅了する。長門市は東が萩市、南が下関市・美祢市に接する、山口県の西北部の市である。
出典:市の概要(長門市)
二尊院にそんいん
油谷の向津具半島にある二尊院には、唐の玄宗皇帝の愛妃・楊貴妃が安禄山の乱で処刑を逃れ、小舟で半島の唐渡口に流れ着き、ほどなく亡くなったという伝説が伝わる。里人は西の海が見える久津の丘に葬ったといい、境内の五輪塔が楊貴妃の墓と伝えられる。伝説は1766年に当時の住職が古老から聞き取って書きとめた古文書に残り、墓に参ると願い事が成就するといわれて、参詣する人が増えたという。
出典:楊貴妃伝説
東後畑の棚田ひがしうしろはたのたなだ
長門市の東後畑の棚田は、日本海を眼下にする斜面に水田が階段状に広がる棚田で、「日本の棚田百選」に選ばれている。棚田は米づくりの場であるだけでなく、治水による国土保全や生態系の維持にも役立つと、近年あらためて見直されている。5〜6月には沖の漁り火と水田の調和がとくに美しく、市内外の写真家がシャッターチャンスを求めて訪れる。
火山がつくった萩の海 ― 笠山・須佐・阿武火山群・長門峡
萩周辺には約50か所の単成火山が分布し、阿武火山群と呼ばれます。最も新しい笠山、最も激しく噴火した伊良尾山、海岸の須佐ホルンフェルスが、その痕跡です。
笠山かさやま
萩の笠山は阿武火山群のうち最も新しく形成された火山で、海岸では約1万年前に噴出した安山岩質の溶岩流が見られる。噴火の最終過程でできたスコリア丘の火口が崩れずに残り、山頂には直径・深さともに約30mの噴火口があって、遊歩道で内部に下りられる。麓の明神池は、かつて島だった笠山が砂州で陸とつながる際に埋め残された海水の池。大小無数の風穴からは、真夏でも約15℃の冷たい空気が流れ出る。北端の虎ヶ崎には約10haに約25,000本のヤブツバキが自生し、開花は12月上旬から3月下旬にかけてである。
出典:小さな火山・笠山で、自然の不思議を体感し、大地の恵みを味わおう!萩ジオパーク|ジオパークとは萩市の概要(地勢・産業)
須佐ホルンフェルスすさほるんふぇるす
日本海の海底に堆積した砂と泥の互層に、高山をつくる斑れい岩のマグマが貫入し、その熱で焼かれて変成した岩石。白と黒の縞模様の断面が特徴で、この断崖は「畳岩」と呼ばれる。約2000万〜1500万年前の日本海形成期の火成活動の名残とされる。同じジオパークの阿武町・モドロ岬では、先端の崖一面に白い花崗岩と黒い閃緑岩の水玉模様が広がる。日本がまだ大陸の一部だった白亜紀に、地下で2種類のマグマが混ざり合ったまま冷え固まったものだという。
阿武火山群と伊良尾山
萩周辺には、1か所で1回だけ噴火する第四紀の単成火山が約50か所分布し、まとめて阿武火山群と呼ばれる。約40万年前に噴火した伊良尾山は、その中で最も激しく噴火したと考えられている。谷に沿って約14km流れ下った溶岩流は「龍が通った道」と呼ばれ、六角柱状の割れ目(柱状節理)が各所で見られる。萩ジオパークは萩市と阿武町の全域に山口市の阿東地域を加えた範囲で、過去1億年にわたる火成活動をたどれる。萩焼の原料の粘土も、1億年前の火成活動でできた花崗岩が風化したものである。
萩六島はぎろくとう
萩の沖には、大島・相島・櫃島・羽島・肥島・尾島という六つの平らな火山島が浮かぶ。いずれも阿武火山群の火山で、溶岩が吹き出して広がり、平坦に固まった溶岩台地であるために平べったい形をしている。六島のうち人が暮らすのは大島・相島・櫃島。単成火山の溶岩台地は日当たりと水はけがよく農地になり、海中の溶岩流は天然の礁として好漁場になっている。見島はこの六島には数えられず、さらに沖にある別の島である。
出典:萩市の概要(地勢・産業)小さな火山・笠山で、自然の不思議を体感し、大地の恵みを味わおう!萩ジオパーク|ジオパークとは
長門峡ちょうもんきょう
火山噴火でできたせき止め湖が、河川争奪によって決壊して生まれた渓谷。河川争奪の現場である丁字川出合淵では、二つの川が正面衝突するように合流する様子が分かる。渓谷は、白亜紀の大規模な噴火でできた分厚い火砕流堆積物を削り込んでおり、河床では溶結凝灰岩やポットホールが随所に見られる。萩ジオパークのジオサイトで、JR山口線の長門峡駅から徒歩5分ほどで河床へ出られる。
見島 ― 牛と古墳と千年の田んぼの島
見島は萩沖の日本海に浮かぶ山口県最北端の離島で、国の天然記念物の見島ウシ、国境警備の武人の墓といわれる古墳群、千年の田んぼ・八町八反で知られます。
見島ウシみしまうし
萩沖の見島で古くから飼われてきた在来牛で、産地は1928年(昭和3)9月20日に国の天然記念物に指定された。牛の天然記念物は全国でもこの産地のみ。黒毛和牛より体が小さく、毛色はかすかに褐色がかった黒で、成熟に5年以上かかるが、温順で病気に強く粗食に耐えたため農耕用に飼われてきた。海外種の影響を受けず、日本の在来種の血統を守っている。
八町八反
見島の八町八反(はっちょうはったん)は、千年以上続くといわれる広い水田で、古代から農業が盛んだったことを示す「千年の田んぼ」と呼ばれる。島は日本海が誕生したころの火山噴火でできた。観音崎では約1200万年前の噴火でできた島の断面が見られ、北側の八里ヶ瀬は海底に広がる溶岩台地に恵まれた古くからの好漁場である。
出典:見島
見島ジーコンボ古墳群
見島の東南部の海浜に、玄武岩の積石塚が200基近く密集する群集墳で、国の史跡に指定されている。7世紀後半から10世紀初頭にかけて造られたと推定され、新羅の侵入に備えて駐留した武人の墓といわれる。「防人の墓」とも呼ばれる。「ジーコンボ」は、土地の言葉で祖父母を「じいこう」「ばあこう」と呼ぶことから、祖先を意味するという説がある。
海沿いを走る鉄路 ― 山陰本線の惣郷川橋梁
山陰本線の須佐―宇田郷間にある惣郷川橋梁は、河口の波打ち際をまたぐ鉄筋コンクリートのラーメン橋で、2001年に土木学会の選奨土木遺産になりました。
惣郷川橋梁そうごうがわきょうりょう
山陰本線の須佐―宇田郷間、阿武町惣郷にあり、惣郷川の河口の波打ち際をまたぐ鉄筋コンクリートのラーメン橋。橋長は約189m、高さは約11.6m。1932年(昭和7)8月に竣工し、翌1933年2月の開業で山陰本線の京都―幡生間が全通した。設計では波浪による浸食と塩害が課題となり、プレートガーダーにモルタルを吹き付ける案、鉄骨鉄筋コンクリートのトラス案、鉄筋コンクリートのラーメン案が比べられて、ラーメンが選ばれた。塩害には鉄筋の被りを厚くし、河口の洗掘には井筒基礎で備えている。開脚式の脚柱と、海岸線に沿う緩やかなカーブが特徴で、2001年(平成13)に選奨土木遺産となった。
よくある質問
青海島には車で行けますか?
できます。青海島は離島とされていますが、車で渡ることのできる島です。海側から断崖を見たいときは、JR仙崎駅から徒歩5分ほどの場所に観光汽船の乗り場があります。島の静ヶ浦にはキャンプ場と海水浴場があり、透明度の高い海はダイビングスポットとしても知られています。
鯨墓には何が葬られているのですか?
母鯨のおなかにいた胎児です。捕獲した鯨から出た胎児が、明治時代までの200年以上にわたって70数体、この墓に納められてきました。建てたのは1692年の鯨組の網頭で、捕鯨の集落が獲った鯨を弔った跡として、国の史跡になっています。
笠山はなぜ「東洋一小さい活火山」と言われるのですか?
「東洋一」は萩市が観光紹介で使っている表現です。裏づけとして挙げられるのは、標高が約112mと低いことと、約50か所ある阿武火山群のなかで最も新しくできた火山であることです。「東洋一」の算定の基準までは示されておらず、キャッチフレーズとして受け取るのが無難でしょう。
見島はどこにありますか?
萩市の沖合、日本海に浮かぶ離島で、山口県の最北端にあたります。周囲は約18kmで、萩市に属する島のなかでも「萩六島」には数えられません。ジーコンボ古墳群が「防人の墓」とも呼ばれる国境警備の島として知られ、独特の伝統文化が残っています。