善光寺門前町 ── 出開帳・仲見世・表参道が支えた巡礼都市

善光寺と聞いて本堂だけを思い浮かべるなら、半分しか見ていない。仁王門から山門まで続く参道と、そこに軒を連ねる仲見世こそ、巡礼者を迎え続けてきた門前町の姿である。
本堂の再建一つをとっても、その裏には出開帳という全国規模の仕組みがあった。山門・仁王門・経蔵という建物も、それぞれ異なる時代の技術と信仰を伝えている。
長野市全体の通史はここでは扱わず、御開帳の年表だけの整理も行わない。ここで見るのは、参道と受け入れの仕組みが、どのように一つの巡礼都市をかたちづくってきたかである。
出開帳という仕組みが支えた本堂再建
善光寺本堂の再建は、全国を巡る出開帳という仕組みに支えられていた。
1700年の大火と再建
現在の善光寺本堂につながる最後の大火は1700年に起きた。移築用に準備されていた資材まで焼失し、再建には一からの資金集めが必要になった。現在の本堂が落成したのは、それから7年後の1707年である。
出典:善光寺「紹介・歴史」
出開帳と前立本尊でがいちょう・まえだちほんぞん
本堂再建の資金は、5年間にわたる出開帳によって集められた。御本尊そのものは絶対秘仏で動かせないため、その分身とされる前立本尊を各地へ運び、浄財を募った。集まった寄進は2万両を超えたと伝えられる。
出典:善光寺「紹介・歴史」
江戸出開帳と回向院えどでがいちょう・えこういん
出開帳は本堂再建期に限らず、その後も度々行われた。初めての江戸出開帳(元禄5年)では、将軍徳川綱吉の母・桂昌院の願いにより、御本尊が江戸城にも渡ったと伝わる。舞台となったのは両国の回向院で、江戸の人々にとって善光寺参りは、必ずしも信濃まで足を運ばずとも叶うものになった。
参道に並ぶ三つの建物
参道には、建立の時代も役割も異なる三つの建物が並んでいる。
山門さんもん
1750年に建立された山門は、五間三戸二階二重門で、国の重要文化財に指定されている。屋根は建立当初の栩葺きに復原され、現存最大の栩葺き建造物とされる。掲げられた額には五羽の鳩が隠れており、「善」の字は牛の顔にも見えるという。
出典:善光寺「主要施設」
仁王門におうもん
現在の仁王門は1918年に建立された。安置される仁王像は高村光雲と米原雲海の手によるもので、支えを使わず自らの足で立つ構造になっている。背面には三宝荒神と三面大黒天も祀られている。
出典:善光寺「巡る」
門前町を支えた人と道
善光寺の護持と、参詣者を迎える町・道は、それぞれ役割を分けながら支え合ってきた。
大勧進・大本願だいかんじん・だいほんがん
善光寺は特定の宗派に属さず、大勧進と大本願という二つの寺院によって護持運営される。大勧進は天台宗を、大本願は浄土宗を束ね、両寺院の住職がそれぞれ善光寺住職も兼ねる。大本願の住職は尼公上人と呼ばれ、毎朝のお朝事でも導師を務める。
出典:善光寺「巡る」
仲見世通りなかみせどおり
仁王門から山門までのおよそ400メートルは仲見世通りと呼ばれる。もとは善光寺如来堂があった場所で、たび重なる火災を機に堂が奥へ移された後、空いた土地に商人が集まって今の商店街ができたと伝わる。名物「八幡屋唐辛子」も、もとは境内の高札前に出た露店から始まったという。1873年にはこの一帯が「元善町」と改称された。
表参道おもてさんどう
1888年のJR長野駅開業は、参詣の形を大きく変えた。各府県から団体で参詣に訪れる人が増え、旅館や洋品店、そば屋などが仲見世に軒を連ねるようになった。長野駅前交差点から善光寺交差点までのおよそ1.5キロメートルは「善光寺表参道」と呼ばれ、1920年代には市長の請願により約14.5メートル幅へ拡幅された。
よくある質問
出開帳と御開帳はどう違うのですか?
御開帳は善光寺本堂で前立本尊を公開する行事で、参拝者が信濃まで足を運ぶ。出開帳はその前立本尊を江戸など別の土地へ運び、現地で公開する行事で、寺の側から参拝者のもとへ出向くかたちになる。
前立本尊と御本尊はどう違うのですか?
御本尊は、誰も実際の姿を見ることができない絶対秘仏である。前立本尊はその御本尊の分身とされる像で、御開帳や出開帳で公開されるのは、御本尊ではなくこちらの前立本尊である。
山門には今も登れますか?
登楼参拝は可能である。平成の大修理を経て2008年に再開されており、それまでは約40年にわたって中断されていた。
「仲見世通り」という呼び名は今も使われていますか?
正式には1873年の改称で「元善町」となったが、参道沿いの商店街を指す呼び名としては、今も「仲見世通り」の名が広く使われている。