軽井沢の避暑地文化は、誰がつくったのか

最終更新: 2026-07-15

A・C・ショーの紹介を描いた架空のドット絵風景

避暑地・軽井沢は、外から来た人だけでつくったわけではありません。迎え入れた側の組織と商売があって、はじめて文化として根づきました。

1886年、ひとりの宣教師が軽井沢を避暑地として紹介しました。しかし、それだけで避暑地文化が生まれたわけではありません。別荘に暮らす人々の自治組織、そして宿場の商人たちの商売替えが重なって、はじめて軽井沢は避暑地として根づいていきます。

この記事では、宣教師が開いた道、別荘文化の担い手たち、そして地域商業の受け入れという三つの視点から、外来文化と地元の相互作用を出典つきで見ていきます。

宣教師が開いた道

英国人宣教師A・C・ショーが1886年に軽井沢を紹介し、その後の顕彰が避暑地の起源として町に根づきました。

A・C・ショーの紹介

1886年

カナダ生まれの英国聖公会宣教師A・C・ショーは、1886年に軽井沢を避暑地として好適だと内外の著名人に紹介しました。帝国大学で教える立場にあったショーの紹介は、外国人社会に軽井沢の名を広める最初のきっかけになりました。

出典:軽井沢町のあゆみ

屋根のない病院やねのないびょういん

1888年・大塚山

ショーは涼しく澄んだ軽井沢の空気を絶賛し、この地を「屋根のない病院」と呼んだと伝わります。1888年には大塚山に自身の別荘を建てました。これが軽井沢別荘第一号で、外国人による避暑地開発の出発点になりました。

出典:タウナー不動産 軽井沢が「屋根のない病院」と呼ばれる理由軽井沢町のあゆみ

顕彰という形の記憶

1902〜1986年

ショーは1902年に亡くなり、青山外国人墓地に葬られました。1908年には「A・C・ショー記念碑」が建てられ、1985年には軽井沢ロータリークラブによる記念胸像、1986年にはショーハウスの復元が完成しています。開発から100年近くたっても、町はこの宣教師の記憶を形にし続けました。

出典:軽井沢町のあゆみ

別荘文化の担い手たち

外国人避暑客の自治組織と、日本人による別荘建設が、避暑地の運営を支えました。

八田別荘という日本人の参加

1893年

1893年、海軍大佐・八田裕二郎が邦人として最初の別荘を建てました。創建当初は電気も水道もなく、水は井戸、明かりはランプ、夜の外出には「こんばんは提灯」と呼ばれる提灯を使う暮らしでした。外国人が切り開いた避暑地に、日本人の生活文化が加わった例です。

出典:軽井沢町 八田別荘

公益委員会から軽井沢会

1916〜1942年

外国人避暑客は相互連絡や救護のため公益委員会をつくり、これが1916年に「財団法人軽井沢避暑団」として組織化されました。1942年には軽井沢集会堂と合併し、「財団法人軽井沢会」となっています。避暑客自身が自治組織を育て、地域運営に関わっていった歩みです。

出典:軽井沢町 八田別荘軽井沢町のあゆみ

外国人の内地雑居

1899年

1899年、外国人が日本国内に自由に居住できる内地雑居が認められました。同じ年、軽井沢では外国人避暑客のための外国為替事務も郵便局で始まっています。国レベルの制度変更が、軽井沢の避暑地としての発展を後押ししました。

出典:軽井沢町のあゆみ

地域商業の受け入れと発展

宿場の旅籠から貸別荘業、夏期講座まで、地元商業は避暑客の需要に合わせて姿を変えました。

亀屋から万平ホテル

1894〜1896年

中山道軽井沢宿の旅籠「亀屋」を営んでいた佐藤万平は、1894年に建物を欧米風の外国人客専用ホテルに改造しました。1896年には外国人が発音しやすいよう「万平ホテル」と改称しています。地元の宿屋が避暑客の需要に合わせて商売を切り替えた例です。

出典:万平ホテル公式 万平ホテルについて

貸別荘業の登場

1899〜1920年

1899年には鹿島岩蔵が貸し別荘六戸を建設し、1915年には野沢源次郎が土地を譲り受けて分譲貸別荘を始めました。1920年には堤康次郎が箱根土地株式会社を設立し、別荘地開発を本格化させています。避暑客の増加が、地元と進出企業双方の新しい商売を生みました。同じ1915年(大正4年)には星野温泉(トンボの湯)も開湯しており、避暑地としての賑わいが宿泊・入浴施設の充実にもつながっていたことがうかがえる。

出典:軽井沢町のあゆみ星野温泉 トンボの湯 公式

夏期大学という知的な場

1918年

1918年には「軽井沢通俗夏期大学」が開講しました。総裁は後藤新平、会長は新渡戸稲造という顔ぶれで、避暑地は涼を求めるだけでなく、知的な交流の場としても機能するようになります。商業だけでなく文化的な受け皿も整っていったことがわかります。

出典:軽井沢町のあゆみ

50周年で結実した合同祝祭

1936年

1936年、軽井沢避暑団・軽井沢教会堂・軽井沢町の三者が合同で「軽井沢避暑地開発50周年祭」を開催しました。外国人組織、教会、そして地元自治体が同じ式典を祝ったことは、外来文化と地元がひとつの行事として結びついた到達点といえます。

出典:軽井沢町のあゆみ

よくある質問

ショーひとりが軽井沢を避暑地にしたの?

紹介のきっかけはショーですが、それだけでは避暑地文化は根づきません。避暑客自身の自治組織や、地元商人による受け入れが重なって、はじめて継続する文化になりました。

宿場時代の軽井沢についても知りたい

江戸時代の宿場としての歩みは、別記事「軽井沢は宿場からどう変わったか」で扱っています。この記事では避暑地文化が成立した1886年以降に絞って見ています。

今のホテルや別荘の料金・設備が知りたい

この記事は避暑地文化が成立した歴史的な経緯を扱うもので、現在営業する施設の料金や設備の比較は対象外です。最新情報は各施設の公式情報を確認してください。

軽井沢会とはどんな組織?

軽井沢会は、外国人避暑客の自治組織「軽井沢避暑団」と「軽井沢集会堂」が1942年に合併してできた財団法人です。避暑客自身が地域運営に関わってきた歴史を今に伝える組織です。

出典・参考

※ 由来に諸説あるものは「諸説あり」として記載しています。読み・由来は公開情報にもとづきますが、最新の情報は各出典でご確認ください。

執筆: LoreMania編集部/出典検証: 各項目に明記

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