長崎市ご当地クイズ 練習問題と解説

長崎市の港と坂道を抽象化した架空のドット絵風景
15問一般中級上級

本番の問題を、答え・解説・出典つきで振り返れます。先に答えを考えてから、正解を表示してください。

収録しているのは出題プールの一部です。本番の検定では、ここに載っていない問題も出題されます。

最終更新: 2026-09-14

一般難易度1・全5問

長崎市では、港と坂の町を江戸時代の海外交流の窓口となった人工島。中華料理店や中華菓子の店が集まる街区。川に架かる二つのアーチが水面に映る石橋という三つの手がかりから眺めます。長崎市らしい景色を思い浮かべ、名前の位置・役割・季節を順に確かめてください。掲載問の解説には出典があるので、答えを選んだ後は公式案内を開き、記憶を地図の実感へつなげられます。

Q1.1636年に江戸幕府が長崎奉行へ築造を命じた、扇形の人工島は何か。

  1. 出島
  2. 銅座町
  3. 出島ワーフ
  4. 高島
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正解出島

1636年、江戸幕府は長崎奉行に命じて扇形の埋立地を築かせた。これが出島で、翌々年には平戸のオランダ商館がここへ移り、鎖国下の日本が西洋に開いた唯一の貿易窓口となる。約1万5千平方メートルの人工島に商館員が暮らし、200年以上にわたり日本の西洋知識の窓口であり続けた。

出典:出島(長崎市公式)

Q2.江戸時代、荷揚げや倉庫のために築かれた埋立地が起源とされる街区の名は?

  1. 長崎の鐘
  2. 長崎新地中華街
  3. 長崎市科学館
  4. 活水女子大学
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正解長崎新地中華街

新地蔵と呼ばれた荷揚げ用の埋立地が起源で、鎖国が緩んだのち唐人屋敷に住んでいた中国人がこの一帯に移り住み、中華街として形づくられていった。現在は約600の店がひしめく日本三大中華街の一つに数えられている。

出典:長崎新地中華街(ながさき旅ネット)

Q3.寛永11年、興福寺の唐僧が架けたと伝わる中島川の石橋は?

  1. グラバー図譜
  2. 出島メッセ長崎
  3. 眼鏡橋
  4. 旧香港上海銀行長崎支店記念館
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正解眼鏡橋

寛永11年(1634年)、興福寺の唐僧・黙子如定が架けたと伝わる。二連のアーチが水面に映る姿が眼鏡のように見えることから、この名がついた。日本最古の石造アーチ橋の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。

出典:眼鏡橋(長崎市公式観光)

Q4.1915年に開業した、長崎電気軌道が運営する乗り物は?

  1. 浦上天主堂
  2. 南山手
  3. 長崎ランタンフェスティバル
  4. 路面電車
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正解路面電車

1915年(大正4年)開業。長年、均一運賃の安さで知られてきたが、近年は段階的に値上げされている。現存する日本の路面電車の中でも開業が古い路線の一つで、被爆後にはわずか3日で一部区間の運行を再開したことでも知られる。

出典:長崎電気軌道の電車開通(公式資料)

Q5.16世紀にポルトガル人が伝えた南蛮菓子「パン・デ・ロー」を起源とする長崎の菓子は?

  1. カステラ
  2. 四海楼
  3. 岩崎本舗
  4. ミルクセーキ
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正解カステラ

起源は16世紀、ポルトガル人がもたらした南蛮菓子「パン・デ・ロー」とされる。鎖国時代を通じて長崎で独自に発展し、卵と砂糖を使う製法は出島経由の交易とともに全国へ広まっていった。

出典:カステラ(ながさき旅ネット)

中級難易度2・全5問

長崎市では、出島と洋館を市内の丘に洋館群と庭園が広がる観光施設。園内に残る現存最古級の洋風住宅。市内に建つ国宝の教会堂という三つの手がかりから眺めます。長崎市らしい景色を思い浮かべ、名前の位置・役割・季節を順に確かめてください。掲載問の解説には出典があるので、答えを選んだ後は公式案内を開き、記憶を地図の実感へつなげられます。

Q6.1865年、設計者フューレ神父の故郷フランス・マン市のカルメル修道院から贈られたステンドグラスがある教会は?

  1. 亀山焼の窯職人
  2. 皓台寺
  3. 大浦天主堂
  4. 浦上天主堂
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正解大浦天主堂

正面祭壇奥に掲げられた「十字架のキリスト」のステンドグラスは、1865年、天主堂を設計したフューレ神父の故郷フランス・マン市のカルメル修道院から贈られた。オリジナルは1945年の原爆で破壊され、現在のものは1951年以降に復元されたレプリカである。

出典:大浦天主堂のステンドグラス(グラバー園公式)

Q7.明治12年の増改築で九州初の煉瓦造構造となり、統一されたゴシック様式の外観に生まれ変わった教会は?

  1. 崇福寺
  2. 春徳寺
  3. 福済寺
  4. 大浦天主堂
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正解大浦天主堂

1879年(明治12年)の増改築で外壁を煉瓦造・漆喰仕上げに変え、正面や左右を拡張して面積はほぼ倍になった。創建当初の3廊式から5廊式へと姿を変え、現在まで続く白亜のゴシック様式の外観が完成した。

出典:大浦天主堂の歴史(大浦天主堂公式)

Q8.天和2年(1682年)、飢饉の際の炊き出しのために鋳造されたと伝わる大釜が残る寺は?

  1. 崇福寺
  2. グラバー図譜
  3. ミルクセーキ
  4. 福済寺
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正解崇福寺

境内の大釜は市指定有形文化財で、天和2年(1682年)、鋳造家・阿山家二代安山弥兵衛の作と推定される。飢饉の際に粥を炊き出すために作られたとされ、釜には由来を記した銘文が刻まれている。

出典:崇福寺大釜(長崎市文化財課)

Q9.三门の一つで「菩薩門」とも呼ばれ、航海の安全を祈る海の女神・媽祖を祀る門があるのは?

  1. JR長崎駅
  2. 崇福寺
  3. 大音寺
  4. 福済寺
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正解崇福寺

崇福寺の媽姐門は三门の一つで「菩薩門」とも呼ばれる、三間三戸・八脚門の建築。航海の安全を祈る中国船主たちが崇敬した海の女神・媽祖を祀っている。極彩色の彫刻が施され、国の重要文化財に指定されている。

出典:崇福寺媽姐門(文化遺産オンライン)

Q10.承応3年(1654年)に来朝した中国僧・隠元隆琦が住職を務め、日本の黄檗宗発祥の地とされる寺は?

  1. 皓台寺
  2. 崇福寺
  3. 興福寺
  4. 思案橋
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正解興福寺

隠元隆琦は1654年に来日し興福寺の住職となった。これが日本における黄檗宗の始まりとされ、隠元はのちに京都・宇治で萬福寺を開いている。日本に隠元豆やいんげん豆を伝えたのも隠元だと言われている。

出典:興福寺(ながさき旅ネット)

上級難易度3・全5問

長崎市では、祈りと記憶を祭りの舞台となる鎮西大社。原爆落下中心地に近い祈りと平和の公園。原爆被爆の実相と平和への願いを伝える資料館という三つの手がかりから眺めます。長崎市らしい景色を思い浮かべ、名前の位置・役割・季節を順に確かめてください。掲載問の解説には出典があるので、答えを選んだ後は公式案内を開き、記憶を地図の実感へつなげられます。

Q11.1824年、長崎郊外の鳴滝に学塾を開き、西洋医学・自然科学を日本人門人に教えた出島商館医は誰か。

  1. シーボルト
  2. ヘンドリック・ドゥーフ
  3. ケンペル
  4. ツュンベリー
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正解シーボルト

シーボルトは1823年に出島商館医として来日し、1824年に長崎奉行の許可を得て郊外の鳴滝に学塾「鳴滝塾」を開いた。西洋医学・自然科学を日本人門人に教え、多くの蘭学者を育てた。

出典:ケンペル、ツュンベリー記念碑(長崎市)

Q12.1989年に開館し、外観がオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅をイメージしている施設は?

  1. 亀山社中記念館
  2. シーボルト記念館
  3. 長崎歴史文化博物館
  4. 永井隆記念館
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正解シーボルト記念館

シーボルト記念館は1989年(平成元年)10月に開館。鳴滝塾の隣接地に立地し、建物外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父の邸宅をイメージしている。

出典:シーボルト記念館開館(NBC長崎放送)

Q13.シーボルトの娘で、日本人女性として初めて西洋医学による産科を修め、1861年に長崎で開業した人物は誰か。

  1. 松平康英
  2. お滝
  3. 楠本イネ
  4. ツル
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正解楠本イネ

シーボルトの娘・楠本イネ(1827-1903)は日本人女性として初めて西洋医学による産科を修めた医師とされ、1861年(文久元年)に長崎で開業した。後年は宮内省御用掛としても働き、日本近代医学の先駆者として知られる。

出典:楠本イネ(日本シーボルト協会)

Q14.1945年6月に白血病の診断を受けた直後、同年8月に爆心地から約700mの診察室で被爆した長崎医科大学の医学者は誰か。

  1. 今井兼次
  2. 舟越保武
  3. 北村西望
  4. 永井隆
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正解永井隆

長崎医科大学の放射線医学者だった永井隆は、1945年6月に白血病と診断され余命3年を宣告された直後の同年8月、爆心地から約700mの診察室で被爆した。自らも重傷を負いながら被爆者の救護にあたり、後年は「長崎の鐘」など多くの著作を残した。

出典:長崎市永井隆記念館(長崎市公式観光)

Q15.「己の如く隣人を愛せよ」に由来する名がつけられた、永井隆が晩年を過ごした二畳一間の小屋は?

  1. 如己堂
  2. 占勝閣
  3. 旧木型場
  4. 第三船渠
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正解如己堂

白血病で寝たきりとなった永井隆は、浦上の人々やカトリック信者仲間の厚意で建てられた二畳一間の小屋に住み、「己の如く隣人を愛せよ」の意から「如己堂」と名付けそこで執筆活動を続けた。

出典:長崎市永井隆記念館(長崎市公式観光)

詳しくは、解説記事で
長崎市の食と港の暮らし長崎市の港と坂の町長崎市の交流と祈りの記憶長崎市の橋・島・景観から歩く地域