天狗党の乱 ― 水戸学が生んだ悲劇の内乱

水戸学が育てた尊王攘夷の情熱は、幕末の水戸藩を激しい内乱に導きました。その中心が「天狗党の乱」です。
元治元年(1864)、水戸藩の尊攘激派「天狗党」が挙兵します。中心となったのは、水戸学者・藤田東湖の四男、藤田小四郎でした。
内乱は那珂湊での交戦を経て、水戸藩内の対立という形で明治維新後まで尾を引きました。その経緯をたどります。
挙兵の中心人物
藤田小四郎の挙兵ふじたこしろう
元治元年3月、藤田東湖の四男・藤田小四郎は、幕府に横浜港の即時鎖港を求めて挙兵しました。名目上の総帥は田丸稲之衛門でしたが、実質的な中心人物は小四郎でした。62人の同志とともに挙兵したと伝わります。
那珂湊での交戦と反射炉の破壊
那珂湊反射炉の破壊
挙兵から半年後の元治元年10月、天狗党と諸生党系勢力が那珂湊で交戦します。この戦闘で、藩が安政年間に築いた那珂湊反射炉も破壊されました。天狗党の乱では最終的に350人を超える者が処刑されたとされます。
弘道館戦争という最終局面
明治元年(1868)の弘道館戦争
天狗党の乱に端を発する藩内の対立は、明治元年(1868)10月、諸生党と反諸生党の勢力が弘道館で交戦する「弘道館戦争」でようやく決着します。文武両道の学びの場として創設された弘道館が、内乱最終局面の戦場になったのは歴史の皮肉です。
よくある質問
天狗党の総帥は誰?
挙兵時の名目上の総帥は田丸稲之衛門、実質的な中心人物は藤田小四郎でした。さらに同年10月以降の西上(京都をめざす行軍)では武田耕雲斎が総大将格として指揮を執り、敦賀で降伏した後に処刑されています。
天狗党の乱と弘道館戦争は同じ事件?
一連の水戸藩内乱ですが、天狗党の乱(1864年の挙兵)と弘道館戦争(1868年の藩内対立の最終局面)は別の出来事です。