横須賀の歩いてわかる地域|ご当地マニア検定

公開日:2026-08-14 / 最終更新:2026-08-14

浦賀奉行所を描いた架空のドット絵風景

浦賀の街を歩くと、奉行所という組織の歴史と、そこで働いた一人の役人の物語が同じ通りの上で重なって見えてくる。

このページでは、江戸幕府の遠国奉行所だった浦賀奉行所と、そこに勤めた与力・中島三郎助を軸に、ペリー来航前後の浦賀の姿をたどる。

組織としての奉行所と、個人としての中島三郎助の役割を分けて確認できるよう、各項目に横須賀市の公式情報を添えた。

歩いてわかる地域を読む:まず押さえる名前

浦賀奉行所は1720年設置の江戸幕府の遠国奉行所で、江戸湾に出入りする船の検査と海防を担いました。1853年のペリー来航時には与力らが最初に艦隊と接触しています。

浦賀奉行所

横須賀・history/出典つき

浦賀奉行所は1720年(享保5年)に下田奉行所から機能を移して設置された江戸幕府の遠国奉行所で、江戸湾に出入りする船舶の検査や海防を担っていた。1853年にペリーが来航した際には、与力の中島三郎助と通訳の堀達之助が最初にペリー艦隊と接触し、その後、別の与力・香山栄左衛門が「浦賀奉行」を詐称して交渉役を務めた。1868年(明治元年)に新政府に接収され、その役割を終えている。

出典:横須賀市「横須賀中央エリア」

歩いてわかる地域を読む:出題でつながる視点

中島三郎助は浦賀奉行所の与力で、ペリー艦隊と最初に接触した人物です。日本初の国産洋式軍艦「鳳凰丸」の建造にも関わり、近代海軍の創設に技術面から貢献しました。

中島三郎助

横須賀・person/出典つき

中島三郎助は浦賀奉行所の与力で、1853年のペリー来航時に通訳の堀達之助とともに最初にペリー艦隊との接触にあたった。翌1854年に完成した日本初の国産洋式軍艦「鳳凰丸」の建造にも関わり、1855年には自ら乗組員として品川沖まで航行させている。その経験を買われ、後年は幕府の命により長崎海軍伝習所で学び、日本の近代海軍創設に技術面から貢献した。

出典:横須賀市「横須賀の歴史」

よくある質問

ペリー来航時、「浦賀奉行」と名乗って交渉したのは誰?

実際に浦賀奉行を名乗ったのは与力の香山栄左衛門で、本物の浦賀奉行である戸田氏栄・井戸弘道は後日、久里浜での国書受け取りの場に登場する。最初にペリー艦隊と接触したのは、与力の中島三郎助と通訳の堀達之助だった。

中島三郎助は浦賀奉行所の中でどんな役割を担っていた?

与力として海防の実務を担当し、ペリー来航時には最初の接触役を務めたほか、日本初の国産洋式軍艦「鳳凰丸」の建造にも関わった人物。後に長崎海軍伝習所で学び、幕末の海軍技術者としても足跡を残した。

出典・参考

※ 由来に諸説あるものは「諸説あり」として記載しています。読み・由来は公開情報にもとづきますが、最新の情報は各出典でご確認ください。

執筆: LoreMania編集部/出典検証: 各項目に明記 / 編集・出典ポリシー

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