札幌の碁盤の目はなぜ生まれた?|開拓使の計画都市

札幌の碁盤の目は、1869年に置かれた開拓使のもとで島義勇が一里四方の格子状市街地を構想したことに始まります。大通公園も、1871年の火防線を起点とする同じ計画の産物です。中心部を歩くと通りが東西南北にそろい、住所が交差点の組み合わせで読めることに気づきますが、この整然とした形は偶然の道路整備ではありません。
札幌の地名にはアイヌ語由来の複数説がありますが、街の形は別の問いです。ここでは「サッ・ポロ」や「サリ・ポロ・ペッ」という語源の話と、開拓使が街区を計画した歴史を分けて扱います。
大通公園も、最初から現在のイベント公園だったわけではありません。1871年に官庁街と住商地区を分ける火防線として造られた空間が、のちに都市の中心軸として使われ続けました。
開拓使と格子状の街路
札幌中心部の碁盤の目は、1869年に置かれた開拓使のもとで島義勇が東西南北に街区を分けて構想した、格子状の市街地計画に始まります。
開拓使かいたくし
1869年に北海道へ置かれた開拓使は、札幌のまちづくりを始める背景になりました。札幌市の都市計画資料は、島義勇が東西南北に街区を分け、一里四方の格子状市街地を構想したと説明します。碁盤の目という通称は、見た目の比喩であると同時に、計画の単位を想像する入口です。
出典:都市計画の豆知識/札幌市
格子状の街路こうしじょうのがいろ
格子状の街路は、札幌の中心部で方向と住所を結びつける基本構造です。設問では、放射状の都市や曲線道路だけの都市と比較するより、開拓使期の計画が街区の向きを揃えたことを押さえると、見た目と歴史を一緒に理解できます。
出典:都市計画の豆知識/札幌市
火防線から大通公園へ
大通公園の原形は、1871年に官庁街と住商地区を分けるために設けられた火防線です。現在は大通西1丁目から西12丁目まで、長さ約1.5km・面積約7.8haの特殊公園として続いています。
火防線ひぼうせん
大通公園の歴史は、1871年に北側の官庁街と南側の住商混在地区を分ける大規模な火防線が造られたことに始まります。現在の大通公園を祭りや散策の場所として見るだけでは、都市防災のための幅広い空間だったという出発点を見落とします。
よくある質問
札幌の碁盤の目はなぜ作られたのですか?
1869年、北海道に置かれた開拓使が、まだ市街地のなかった土地に新しい街をつくる計画を立てたことがきっかけです。責任者だった島義勇は、方角に沿って区画を割り振る一里四方の街づくりを描きました。いま見える通りの並びは、その区割りがそのまま受け継がれた結果です。
札幌の住所を読むとき、街路の向きはどう役立ちますか?
東西南北にそろった街区のため、通りの方向と住所の組み合わせを都市の計画として読み取れます。
大通公園の役割は時代でどう変わりましたか?
防火のための空間から、散策や季節行事を受け止める都市の広場へ役割が広がりました。